「フェイン」 緑の野辺に、やさしい風が吹く。 やわらかく冷たい若草の上に腰を下ろして、セレンは彼の名を呼んだ。 世界の混乱、その収束とともに、大地は息を吹き返していた。すでに天使としての能力は失っても、風に、緑に触れるたびそれを感じ取る。心地よい感覚に、セレンは目を細めた。 「フェイン、覚えていますか」 「なにをだ?」 返しながら青年が、セレンの足もとに膝をついた。そうして、彼女の草に伸べた片脚を取った。 その大きな手が、ゆっくりと、足をしめつけていた靴を脱がせる。つまさきを涼しい風がかすめて、開放感にセレンはほうと息をついた。 「ああ、これはひどいな」 一目見て、青年は顔をしかめた。 現れたセレンの足は、ところどころすれたように肌が破れて血をにじませていた。押さえつけられていたためか、白く色の引いた爪も、そのいくつかがゆがんで割れかけている。 セレンは青年の視線を避けようと、身じろぎをした。長い旅装束のすそに足を引っ込める。 「すみません、まだ、歩くのに慣れなくて。じきに、足も丈夫になると思うのですが」 「いや」 青年は首をふると、降ろした荷物を手で探りだした。 「ちょっと、待っていてくれ」 言いながら、中から取り上げた水筒に、白い麻布を押しあてる。セレンは驚いて声を上げた。 「そんな、水がもったいないです、フェイン」 彼女の言葉を無視して、フェインはこちらに向き直った。有無を言わせない、けれども気遣いを感じさせる動きで、ちぢこめていた足首をつかむ。 「あの、フェイン…!」 かるく足首を引き寄せられて、セレンは思わず身をすくめた。男性らしく皮の厚い手のひらと、節のしっかりとした指先をじかに感じて、ほおが熱くなるのがわかる。 「どうした?」 いぶかるように問われ、セレンは慌てて首を振った。 「いいえ、なんでも…」 自分で自分の身体が、把握しきれない。人の身になってから、それまで気にもしなかったさまざまなことが、なぜかひどく自らを乱すようになっていた。 「しみるだろうが、すこし我慢してくれ」 「あ…はい」 落ち着いた声に、セレンはうなずいた。 濡らした布で、そっとにじんだ血を拭われる。触れる痛みと冷たさに、思わずつま先がはねた。 それは、フェインの方にもしっかり伝わってしまったらしい。その精悍な横顔が、ふっと陰る。 「…すまないな」 低い声が、耳をかすめた。 「君には、この旅は辛いばかりだろう」 「いいえ、フェイン!」 セレンは、思わず声を強くした。 自分に翼があったころ。地に降りている間でさえこの脚は、移動のための器官ではなかった。そのころを引きずって脆弱な身体が、そして彼にそんなことを思わせてしまう自分が、口惜しい。 青年は、にじんでくる血を拭いながら息を吐いた。 「無理はしなくていい」 どう言えば、正しく伝わるのだろうか。焼けるような焦燥とともに、セレンは首を振った。 「いいえ、足が痛むのはほんとうですが…それでも、この痛みは、私にとって喜びなのです」 青年が顔を上げ、驚いたようにセレンを見た。セレンは、その深い琥珀のひとみを逃さぬように、じっと見つめかえす。 「覚えていませんか? フェイン」 濡れた布をそっとフェインの手から取り、傷ついた足の甲をあらわにする。濡れた傷口は風に触れ、ぴりぴりと痛んだ。 「あなたが私の勇者で、私があなたの天使だったとき…この身体は、地につなぎとめられてはいませんでした」 そうっと、セレンは自分のつまさきを撫でた。 「ほら、あなたが、重力の話をしてくださったでしょう?」 青年は一つまたたきをした。しばらく考えるようにした後、うなずきが返る。 「あ…ああ」 セレンは、すこし微笑んだ。 「私、あのお話を聞いたとき。とても幸せな気持ちになって…そして、同じくらい哀しくなったのです」 「何故」 青年はつぶやくように問うた。 「だれもかれもが引かれあい、つながっているなかで…私だけ」 目を伏せ、セレンは胸を押さえた。あのときの思いがよみがえる。 「私だけが、そのなかから外れ、ひとりきりなのだと」 「……セレン」 低い声が、セレンを呼んだ。 そっとほおに触れてくる手の感触に、そのまま頭をもたせかける。歩くうちに汗ばんだ肌はいつの間にか冷えていて、あたたかく乾いた手のひらが、ひどく心地よい。 「だから私は今、とてもうれしいのです。…この足の痛みは」 ゆるく微笑んで、セレンは青年を見上げた。 「私が、あなたと引かれ合っている、そのあかしなのですから」 この身が人であるかぎり、それだけはけして変わらないから。 いつか、このひとに疎まれ、そばにいられなくなる日が来たとしても。 「…セレン」 言葉に迷うような表情で、青年が口を開いた。 「俺は……」 セレンは首を振った。 「あなたのそばにいられて…それだけで、ほんとうに、幸せです。フェイン」 たとえ、あなたの心がずっと、私を受け入れることを許さなくとも。 たとえ、あなたの心がずっと、罪とあのひとを引きずっていくのだとしても。 見つめたフェインの面立ちは、ほんのわずか、苦しげにゆがんでいた。 「……すまない、セレン」 不確かな約束。さよならと告げた彼。 自分がそばにいることこそが、フェインを苦しめるのを知っている。 それでも、いまを幸せと思う自分は… たしかにもう、天使ではあり得ないのだと。 痛みと等価の幸福に、セレンはただ、微笑んだ。 fin. |