■  天の箱庭  ■



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「おとうさん……」
 かぼそい声が訴える。
 寝台に横たわる少女の、青白くこけた面立ちに、ひとみばかりが大きく天井を見つめていた。
「……おとうさん、痛いよ……」
 かすかに動いたくちびるからは血の気が失せている。
 紫紺の法衣をまとう青年が、汚れた床に膝をつき、少女の手をにぎっていた。うす暗い中、ぼんやりと淡い光が二人をつつむのが、セレンには見えた。

 やがて、セレンはゆっくり指を組みあわせた。
 年若くして、天に召された娘のために。


「…神さま」
 粗末な寝台へ、男がおぼつかぬ足取りで歩み寄った。
「俺は、ずっと祈ってたんだ。この子が、また元気になりますようにって…」
 紫衣の青年の傍ら、控えた村の神父の手元でゆらりと揺らいだろうそくの明かりが、少女のほおに陰影を落とす。
 ゆっくりと、床に男が膝をついた。ごつりと、にぶい音がひびいた。
 ふるえる指先が、少女の脂気をなくした髪をにぎりしめる。
「……なんで、こんな……ッ」
 老いた神父が、男の色あせた上着の背にそっと手を置いた。
「……彼女は、主に愛され、その御元へと召されたのですよ」
 やわらかく、沈んだ声音が薄闇にひびく。
「主の思し召しは、つねにわかりやすいかたちで示されるわけではありません、ですが…」
 男は寝台に伏したまま、乱暴に神父の痩せた手をふり払った。悲嘆は呪詛のうめきへ変わる。
「畜生、なにが思し召しだッ!」
 男のふるえる指が、だらりと投げ出された少女の手を取った。ひたいに強く押しあてる。
「この子が寝ついちまったのは、流れのごろつきにこづかれた傷が元だってのに……なあ、これが、…これがほんとに思し召しだってんなら、なんでそんなやつらが生きてんのをお許しになって、俺たちがこんな目にあわなきゃならねえ、…」
 男は、ひきつるようにのどを鳴らした。口元を押さえた指のあいだから、嗚咽まじりの言葉がもれる。
「……なあ、神父さま、それが神さまのお望みだってえのかよ…ッ」
 老神父は哀しげにひとみをかげらせ、男の背を見つめた。
「………」
 一つ十字を切って、神父は手燭をそっと男のそばに置いた。拍子におおきく炎が揺らいで、男と入れ替わりに、薄闇へ身を引いていた人影を浮かび上がらせる。
 銀の髪、紫紺の法衣をまとった青年は、ただひっそりとそこに立っていた。
 寝台をはなれ近づく黒衣の痩身を、青年は静かに見つめる。神父は深々と頭を下げた。
「……このたびは、ありがとうございました。この家の主、ヨハンに代わって御礼を申します」
 声を掛けられた青年は、小さく首をふった。
「いいえ、……すこし場所を」
 神父をうながし、寝台に伏した男を背に部屋を出る。
 青年はぱたんと扉を閉めて、それから深いため息をついた。
「礼を言われるようなことは、なにもしていません」
 うすい扉の向こうから、かすかなすすり泣きが聞こえる。
「僕も、けっきょく彼女を助けることはできなかったのですから…」
 言って、青年はゆるやかに目を閉ざした。
「むしろ…力及ばず、申しわけなく思います」
 暗く灯りもない廊下の突きあたりから、月明かりが射しこんでいた。青年の銀の髪が、神の祝福めいてひそやかにきらめく。そのさまを、セレンは静かに見ていた。
「そのようなことを…」
 神父は、青年の謝罪をとどめるように手を差しだした。
「貴方のように主にほど近き方がおられて、助からぬものならば、…それこそお召しであったのでしょう。……いたしかたのないことです」
 老いた聖職者のしわぶかい横顔には、なお深い諦めが刻まれていた。




 村はずれまで来て、青年は大きく息を吐いた。
「……まったく、やってられない」
 呼気はふわりと白く昇って夜気に溶けていく。
「セレン。いるんだろう、出てこいよ」
 自然な動きで、青年は空を見上げた。
 ゆっくりと、セレンは実体化しながら地に足をつけた。
「はい、……あの」
 青年の前に立ち、その表情に口ごもる。
「僕は、なにもできなかった」
 ひどく、青年は不機嫌そうだった。
「あの…ロクス」
 セレンはそっと言葉を紡いだ。
「それでもあなたは、為し得るかぎりのことをされたと…」
「そんなことを言ってるんじゃない」
 ぴしゃりとさえぎられ、セレンは口をつぐんだ。
「あの家を見たか?」
「え? …ええ」
 セレンは、青年の言いたいことがつかめぬままうなずいた。そのさまを見て、青年はふんと鼻を鳴らした。
「このくそ寒いってのに、灯りはもちろん暖を取る余裕さえもない。敷布や包帯だって、いつ代えたものだか…まちがいなく傷は膿んでたし、あんな暗い中でも、南京虫がちょろちょろしてるのが見えた。…もとはたいした怪我じゃあなかったはずなのに」
 舌打ちでもしそうな口調で、続ける。
「あのこどもを殺したのは、ごろつきなんかじゃない。貧しさと無知が、あの子の命を奪ったんだ」
「…貧しさと、無知?」
 繰りかえしたセレンを、紫紺のまなざしがにらんだ。
「そうさ。そもそも生きていくだけの力が、あの子にはなかったんだ。ろくなものも食べてないうえに、あんな不衛生な状態じゃあな…助かるものだって助からない」
 苦い口調で青年は吐き捨てた。
「ばかばかしい。あれが神の思し召しなんて上等なものなら、堕天使のはかりごとだって思し召しなんだろうさ。……それとも、ほんとうにそうなのか?」
 月影の下。見たこともないほどきつい青年のまなざしに、セレンは息を飲んだ。
「……え」
「ああいうふうに死ぬことこそが、始めからあの子に与えられてる運命だったってことなのか?」
 思わず、セレンは目を見開いた。
「そんな、…そのようなことはありません、ロクス」
「どうだかな」
 青年は、小さく吐きすてた。
「さっきの神父が言ったように、僕も教会で教えこまれたよ。人の苦難は、なべて神の与えたもうた試練、其が御旨だってね」
「…それは」
 セレンは、迷った後、ゆっくりと口を開いた。
「たしかに…その教え自体は、間違っていません」
「…へえ?」
 考えながら、続ける。
「地上は、けして楽土ではなく…はびこる悪徳を、神が罰することはありません」
 知らず、セレンはこうべを垂れていた。
「けれどそれは、神の導きによらず、みずから善き世界を造りあげるだけのかがやきを、人の魂がそなえること…それこそが、神の願われたところであるため、と」
「で、そのためにわざわざ、貧しき世界をおつくりくださった…」
 紫水晶のひとみに、皮肉げなひかりがよぎった。
「僕たちは、神の理想を叶えるため、神を満足させるために土塊から造られたってわけか」
「ロクス…」
 辛らつな言葉に、セレンはかすかに翼をふるわせた。
「あなたたちは、神に愛されているのです」
 目の前の青年が、納得するかはわからない。けれども、結局自分につむげる答えなど、決まっているのだ。
「拘束されざる意志こそ、その証。未来は、常にあなたたち自身の手にゆだねられています」
 告げる言葉に、胸が痛んだ。
「そして、先ほどの少女が命を落としたこともまた、……この世界に生きる者の積みかさねた選択、その結果なのです」

 ――――苦しむ人々を救いたい、と思う。
 たとえば天の糧食を降らせ、あるいは知られざる英知を伝え。弱き者を癒し、より善き者を王へと導く。それができるだけの力が、神には、…自分にはあるのだ。けれど。
「ロクス、神は、人の運命を、その命数を定めたりはなさいません」
 人の選ぶ道行きを尊べばこそ、それは許されざる業となる。
 干渉しうるのは、堕天使が―――人の身にてあらがうこと叶わぬほどの厄災が、訪れたときより他はない。
「天使も同様に、……悪しき者を罰せず、罪なき者を救うこともないのです」
 それが、非情である自覚はあった。
 なればこそ。男が、娘の落命に天を呪ったように。
 天の掟に従い、手を差し伸べぬ自身を、責められる覚悟もあった。
 青年のねめつける視線を、セレンは静かに受けとめる。
 そうして、どれほど時が過ぎたか。


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