- 1 - かぼそい声が訴える。 寝台に横たわる少女の、青白くこけた面立ちに、ひとみばかりが大きく天井を見つめていた。 「……おとうさん、痛いよ……」 かすかに動いたくちびるからは血の気が失せている。 紫紺の法衣をまとう青年が、汚れた床に膝をつき、少女の手をにぎっていた。うす暗い中、ぼんやりと淡い光が二人をつつむのが、セレンには見えた。 やがて、セレンはゆっくり指を組みあわせた。 年若くして、天に召された娘のために。 「…神さま」 粗末な寝台へ、男がおぼつかぬ足取りで歩み寄った。 「俺は、ずっと祈ってたんだ。この子が、また元気になりますようにって…」 紫衣の青年の傍ら、控えた村の神父の手元でゆらりと揺らいだろうそくの明かりが、少女のほおに陰影を落とす。 ゆっくりと、床に男が膝をついた。ごつりと、にぶい音がひびいた。 ふるえる指先が、少女の脂気をなくした髪をにぎりしめる。 「……なんで、こんな……ッ」 老いた神父が、男の色あせた上着の背にそっと手を置いた。 「……彼女は、主に愛され、その御元へと召されたのですよ」 やわらかく、沈んだ声音が薄闇にひびく。 「主の思し召しは、つねにわかりやすいかたちで示されるわけではありません、ですが…」 男は寝台に伏したまま、乱暴に神父の痩せた手をふり払った。悲嘆は呪詛のうめきへ変わる。 「畜生、なにが思し召しだッ!」 男のふるえる指が、だらりと投げ出された少女の手を取った。ひたいに強く押しあてる。 「この子が寝ついちまったのは、流れのごろつきにこづかれた傷が元だってのに……なあ、これが、…これがほんとに思し召しだってんなら、なんでそんなやつらが生きてんのをお許しになって、俺たちがこんな目にあわなきゃならねえ、…」 男は、ひきつるようにのどを鳴らした。口元を押さえた指のあいだから、嗚咽まじりの言葉がもれる。 「……なあ、神父さま、それが神さまのお望みだってえのかよ…ッ」 老神父は哀しげにひとみをかげらせ、男の背を見つめた。 「………」 一つ十字を切って、神父は手燭をそっと男のそばに置いた。拍子におおきく炎が揺らいで、男と入れ替わりに、薄闇へ身を引いていた人影を浮かび上がらせる。 銀の髪、紫紺の法衣をまとった青年は、ただひっそりとそこに立っていた。 寝台をはなれ近づく黒衣の痩身を、青年は静かに見つめる。神父は深々と頭を下げた。 「……このたびは、ありがとうございました。この家の主、ヨハンに代わって御礼を申します」 声を掛けられた青年は、小さく首をふった。 「いいえ、……すこし場所を」 神父をうながし、寝台に伏した男を背に部屋を出る。 青年はぱたんと扉を閉めて、それから深いため息をついた。 「礼を言われるようなことは、なにもしていません」 うすい扉の向こうから、かすかなすすり泣きが聞こえる。 「僕も、けっきょく彼女を助けることはできなかったのですから…」 言って、青年はゆるやかに目を閉ざした。 「むしろ…力及ばず、申しわけなく思います」 暗く灯りもない廊下の突きあたりから、月明かりが射しこんでいた。青年の銀の髪が、神の祝福めいてひそやかにきらめく。そのさまを、セレンは静かに見ていた。 「そのようなことを…」 神父は、青年の謝罪をとどめるように手を差しだした。 「貴方のように主にほど近き方がおられて、助からぬものならば、…それこそお召しであったのでしょう。……いたしかたのないことです」 老いた聖職者のしわぶかい横顔には、なお深い諦めが刻まれていた。 村はずれまで来て、青年は大きく息を吐いた。 「……まったく、やってられない」 呼気はふわりと白く昇って夜気に溶けていく。 「セレン。いるんだろう、出てこいよ」 自然な動きで、青年は空を見上げた。 ゆっくりと、セレンは実体化しながら地に足をつけた。 「はい、……あの」 青年の前に立ち、その表情に口ごもる。 「僕は、なにもできなかった」 ひどく、青年は不機嫌そうだった。 「あの…ロクス」 セレンはそっと言葉を紡いだ。 「それでもあなたは、為し得るかぎりのことをされたと…」 「そんなことを言ってるんじゃない」 ぴしゃりとさえぎられ、セレンは口をつぐんだ。 「あの家を見たか?」 「え? …ええ」 セレンは、青年の言いたいことがつかめぬままうなずいた。そのさまを見て、青年はふんと鼻を鳴らした。 「このくそ寒いってのに、灯りはもちろん暖を取る余裕さえもない。敷布や包帯だって、いつ代えたものだか…まちがいなく傷は膿んでたし、あんな暗い中でも、南京虫がちょろちょろしてるのが見えた。…もとはたいした怪我じゃあなかったはずなのに」 舌打ちでもしそうな口調で、続ける。 「あのこどもを殺したのは、ごろつきなんかじゃない。貧しさと無知が、あの子の命を奪ったんだ」 「…貧しさと、無知?」 繰りかえしたセレンを、紫紺のまなざしがにらんだ。 「そうさ。そもそも生きていくだけの力が、あの子にはなかったんだ。ろくなものも食べてないうえに、あんな不衛生な状態じゃあな…助かるものだって助からない」 苦い口調で青年は吐き捨てた。 「ばかばかしい。あれが神の思し召しなんて上等なものなら、堕天使のはかりごとだって思し召しなんだろうさ。……それとも、ほんとうにそうなのか?」 月影の下。見たこともないほどきつい青年のまなざしに、セレンは息を飲んだ。 「……え」 「ああいうふうに死ぬことこそが、始めからあの子に与えられてる運命だったってことなのか?」 思わず、セレンは目を見開いた。 「そんな、…そのようなことはありません、ロクス」 「どうだかな」 青年は、小さく吐きすてた。 「さっきの神父が言ったように、僕も教会で教えこまれたよ。人の苦難は、なべて神の与えたもうた試練、其が御旨だってね」 「…それは」 セレンは、迷った後、ゆっくりと口を開いた。 「たしかに…その教え自体は、間違っていません」 「…へえ?」 考えながら、続ける。 「地上は、けして楽土ではなく…はびこる悪徳を、神が罰することはありません」 知らず、セレンはこうべを垂れていた。 「けれどそれは、神の導きによらず、みずから善き世界を造りあげるだけのかがやきを、人の魂がそなえること…それこそが、神の願われたところであるため、と」 「で、そのためにわざわざ、貧しき世界をおつくりくださった…」 紫水晶のひとみに、皮肉げなひかりがよぎった。 「僕たちは、神の理想を叶えるため、神を満足させるために土塊から造られたってわけか」 「ロクス…」 辛らつな言葉に、セレンはかすかに翼をふるわせた。 「あなたたちは、神に愛されているのです」 目の前の青年が、納得するかはわからない。けれども、結局自分につむげる答えなど、決まっているのだ。 「拘束されざる意志こそ、その証。未来は、常にあなたたち自身の手にゆだねられています」 告げる言葉に、胸が痛んだ。 「そして、先ほどの少女が命を落としたこともまた、……この世界に生きる者の積みかさねた選択、その結果なのです」 ――――苦しむ人々を救いたい、と思う。 たとえば天の糧食を降らせ、あるいは知られざる英知を伝え。弱き者を癒し、より善き者を王へと導く。それができるだけの力が、神には、…自分にはあるのだ。けれど。 「ロクス、神は、人の運命を、その命数を定めたりはなさいません」 人の選ぶ道行きを尊べばこそ、それは許されざる業となる。 干渉しうるのは、堕天使が―――人の身にてあらがうこと叶わぬほどの厄災が、訪れたときより他はない。 「天使も同様に、……悪しき者を罰せず、罪なき者を救うこともないのです」 それが、非情である自覚はあった。 なればこそ。男が、娘の落命に天を呪ったように。 天の掟に従い、手を差し伸べぬ自身を、責められる覚悟もあった。 青年のねめつける視線を、セレンは静かに受けとめる。 そうして、どれほど時が過ぎたか。 |