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「……そう、だな」
 ふと青年が、目を閉じた。ゆっくりと、息を吐き出す。
「すべて神さまがいいようにしてくださる、なんてのよりは」
 その呼気が、ふわりと白く広がり、消える。
「放っておいてくれたほうが、百倍ましだ。たとえそれが、はじめから与えられてた箱庭のなかだとしたって」
 セレンは、まじまじと青年を見つめた。
「……人を救わない神を、…天使を、あなたは責めないのですか?」
 青年は肩をすくめ、小さく苦笑した。
「君がどう思うかは、知らないが。絶対の善が存在しうるなんて、僕は信じない」
 セレンは目を見開いた。
「だから、神が常に正しく在るとも思わない。だのにどうしてそんな相手に、救ってほしいとか、罰してほしいとか、そんなこと願わなきゃならないんだ?」
 いま、彼は、何を言ったのだろう。
 混乱のままに、言葉が口をついた。
「け、…けれど、そんな、それでは、…」
 セレンは口ごもった。何を、どう問えばいいのか。
 向けた困惑を読みとってか、青年は苦笑まじりに言った。
「善悪なんてもんは、しょせんは世の中をうまいこと回すための方便だって、僕は思ってる」
 世界の理、それが具現した存在の前で、けれど青年の口調はたいして力がこもるでもなく、常の身勝手を言うそれと変わらない。
「ただ、それぞれの土地で、その時勢にふさわしい『正義』を、勝手に作り上げてるってだけのことさ。そんなとこに、よそさまの正義を身勝手なやりかたで押しつけられたって不愉快なだけだろう?」
 青年は、ふうっと息を吐き、それから吸った。
「だから、なにもしない、…自分の論理を強いようとしない神を、責める理由なんてない」
 セレンはただ、呆然と見つめ返した。しばしの間、沈黙が落ちて。
「………おい」
 青年は、ぶっきらぼうに声を上げた。
「いつまで呆けてる。…ちゃんと聞いてたのか?」
 不機嫌さをただよわす青年の白いほおには、照れたように、うっすらと朱がさしていた。
「君が聞くから、わざわざ真面目に答えてやったってのに」
 投げられた思想を整理しきれないまま、けれど先に浮かんだ疑問を、セレンは投げた。
「それでは… 何故あなたは、天使の勇者となってくださったのですか」
 神が正義の体現者だと信じないのならば。
「…さてね。最初はその場の勢いだったけど」
 食い入るように見つめる先で、青年はあっさり肩をすくめた。
「正しいかそうじゃないかなんてのは、実のところどうだっていいんだ。僕はただ、自分のしたいことを、したいようにやってるだけなんだからな」
「あなたの、したいこと…」
 セレンは繰りかえした。ああそうだ、と青年はうなずいた。
「堕天使は嫌いだ。やることなすこと、僕の癇に障る。だからぶちのめす。…わかりやすいだろ?」
 とまどいながらも、セレンは首肯した。
「そう…かもしれません」
 青年は、ちらりと笑い、続けた。
「僕は君が気に入っている。だから、君の無茶な望みを聞く。君が、ましてや僕が正義の味方だからなんて理由からじゃない。…これも、わかりやすいよな?」
「はい、……」
 うなずいてから、その言になにか言葉以上の含みを感じて、セレンは首をかしげた。
 考え込んでいる横から、青年は息を吐いた。
「……もういい」
「え? ロ、ロクス?」
 法衣の裾をひるがえし、青年は歩き出す。
「あ、…待ってください、ロクス」
 あわてて、セレンは背の翼を羽ばたかせた。
 夜の村は、暗く静まりかえっていた。時折ざわめく草の音が、ひどく寒々しくひびく。
 足下を照らすのは、凍るような月明かりばかりだった。闇の中、一軒だけぼんやりと遠くに灯りをともすのは、一夜の宿を借りた民家の家人が、青年を待っているのだろう。はかない、けれど暖かなかがやきに、セレンは目を細めた。
「なあ、…セレン」
「はい?」
 ふいに、先を行く青年からつぶやきが届いた。呼ばれた名に、セレンは舞い降りる。
「……あの子はかわいそうだった。…父親もだ」
 セレンは少し後ろにふわりと従いながら、歩みを止めない青年の背中を見つめた。
「神の救いを望むことは、何が自分にとっていいことなのか、自分で考えて、自分で選ぶって権利を、放りだすのと同じことだ。それでも、……」
 しばらくのあいだ、ざくざくと足音だけがひびく。沈黙の後、青年は、ぽつりとつぶやいた。
「あの子を救う力が神にあるなら、救ってほしかったと、思っちまう」
 揺れる銀の後ろ髪のあいまで、うつむいた青年の首すじが、月に白く照らされている。
「けっきょくは僕も、君と同じだ。何もできない。…だれも救えない…」
 まるで、痛みをこらえるような低い声音に、セレンはゆっくりと手を伸ばした。
 そっと、背中に押し当てる。驚いたように、青年が立ち止まった。
「あなたは違いますよ、ロクス」
 ふり返った相手に、微笑む。
「あなたは、あなたの望む姿へ、世界を変える力を持っています」
 見つめてくるひとみの紫は、貴なる色だとセレンは思う。
「すべての人を、救うことはできなくとも…あなたが救うことのできる人は、たしかにいるのです」
 その裡にかがやける、魂の色だ。
「……神さまに選ばれた、勇者だからって?」
 皮肉げに、そのひとみがかげる。セレンはかぶりをふった。
「あなたが、人だからです。ロクス」
 伸ばした両手で、そっとそのほおを包みこむ。あらん限りの祝福を。
 神の正義を信じない、この人に。
「人はだれもが、ほんの少しずつ、その力を与えられているのですよ」
 ならば、人だけが人を救うのだと。
 知っているこの人に、絶望してほしくない。
 それが叶うなら、自分の力、そのすべてをなげうってもいい。
 けれどそうまで助けたいのは、天の一部たる勇者の、その使命ではけしてなく。
 ただ、一人の人間としての彼の、その道行きを。

 ねがう心は、すでに天使としての規を外れているのだろうか。
 ほんの少しだけ、セレンは怖れを覚えた。
 規を外れることにではなく。…それでもかまわない、と思ってしまった自分自身に。

「……セレン?」
 怪訝な声が、耳に触れた。
「おい、…どうした?」
 知らず頭を垂れていたことに気づき、セレンはそっとかぶりをふった。
「いいえ、…ただ、すこしびっくりして」
「はあ?」
 セレンは顔を上げた。静かに微笑みかける。
「あなたを、守りたいとそう思うのです」
 青年は顔をしかめた。
「……それが君の仕事だろ?」
「ええ、ロクス、…その通りですね」
 笑ったセレンに、青年は何とも言えない顔をした。




「今日はつきあわせて悪かったな」
 仮宿の寝台、その脚元へ、手荒に青年は荷を放り出した。
 ぶっきらぼうな口調に、セレンは微笑んだ。
「いいえ、ロクス。…また、明日来ます」
 その背中へ丁重に身を折って、セレンはきびすを返した。
 手を掛けた窓辺から一つ、二つと翼を打つ。風を切るたび、ぐんと高度が上がる。
 やがて、セレンはふわりと羽ばたきを止め、はるか地上の灯火を見下ろした。
 包みこむ冬の冷気も、横殴りの風も、この身へ何かを与えることは叶わない。
 真なる善。その具現たる自ら、変化の余地なきはずのそれを思う。

「……わたしは」
 黒々とした空を、セレンは見上げた。
 さらにその上、自らの在るべき場所へと、翼を羽ばたかせる。


 天は遠かった。






 fin.


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