■  Phantom pain  ■



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 窓硝子のふるえる音に、ロクスは重いまぶたを上げた。
 気のせいかと思う間もなく、繰りかえされる。
 コツ、――――コツン。
 そろそろ日付も変わろうかという、深夜。しかも窓。
 こんな時間、こんな場所から訪れるのは盗賊か、それとも空飛ぶ常識知らず。……我ながら無理を感じる後者の仮定に、しかしロクスはつい最近、ドンぴしゃあてはまる存在と知りあってしまっていた。
 聞こえた羽音で、どちらであるかが決定する。
「……おい」
 ゆっくりと、ロクスは寝台から身体を起こした。
「いいかげんにしろよ…寝たばかりなんだぞ」
 ため息まじりのうめきに重なるように、かたんと窓が開いた。
「こんばんは、ロクス、……あ」
 やわらかな声が、暗闇にひびく。
「すみません。今日は、もう休んでいたのですね」
 ばさりと重たげな羽音が一つ。
 背の翼をつぼめた天使が、身をかがめ、夜空を切りとる窓から室内へとすべり込んだ。とたん、天使自身のまとう光で、室内がぼんやりと明るくなる。
「ああ、…見てのとおりだよ、天使さま」
 それを半眼で眺めながら、ロクスはぶすりと吐き捨てた。
「わざわざ押しかけてくださったところ申しわけないんだが、僕はねむい」
 上掛けの中であぐらをかいて、乱れた髪を払いのける。
「ちゃっちゃと用件を言ってくれ」
「あ、…その、ですね」
 いくぶん気後れしたふうに、天使はゆっくりまばたきをした。
「実は、カディスのリダの村で…」
「ああ、…事件か」
 かすかに揺れる翼を眺めつつ、ロクスはあくびを一つかみ殺した。
「わかった、僕が行こう」
「…いいのですか?」
 小鳥じみた仕草で首をかしげて尋ねられ、ロクスは不承不承うなずいてみせた。この慈悲深き天使さまと、受けるの受けないのと問答するのもおっくうだ。それだけのことだ。
 天使は目に見えて表情を明るくした。
 …その顔一つのために、引き受けたなんて。認めてしまうには、まだ多少どころでない抵抗が、ある。
「今回の事件ですが…」
 続けようとする天使を、ロクスは手を挙げさえぎった。
「あのなあ。……説明は明日にしてくれ、頼むから…」
「ああ、そうですね、すみませんでした」
 ゆっくりと身を折る動作に従って、薄茶の髪が、白い燐光をまとわりつかせて揺れる。
「引き受けてくださって、ほんとうにありがとうございます、ロクス」
「まったく…自分がこんなイイ奴だったとは、知らなかったよ」
 ロクスは再びあくびをかみ殺し、浮かんだ生理的な涙を指先でぬぐった。
「こんな夜更けに押しかける非常識なやつの頼みを、素直に引き受けてやるんだからな」
 こめた棘にうろたえるかと思いきや、深い碧に沈んだ天使の双眸は、やわらかく細められた。
「ええ、そうですね」
 ふわりとほほえむ。
「あなたはとても人の好い方だと、私も思います」
 頭の中でとぐろを巻いていた眠気が、一気に飛び去った。ロクスは、顔が引きつるのを自覚する。
「気持ち悪いこと言うやつだな。…なにか僕に含むところでもあるのか?」
 天使は、不思議そうに一つまばたきをした。まっすぐなまなざしが見つめてくる。
「私は、思ったことしか言いませんよ。ロクス、あなたはとても…」
「ああ、もういい」
 ロクスは、うんざりと天使をさえぎった。
 いったいぜんたいこの天使さまは、自分にどんな幻想を抱いているのだろう。
 勝手に善人に仕立て上げられているかと思えば、少しばかり腹立たしくもある。自分のことを、ろくすっぽ知りもしないくせに。
 天使は、少しばかり困った顔をした。どうすべきか迷うように、たたずんでいる。
 ロクスは、苛だちを隠さず問うた。
「まだなにかあるのか?」
 天使はゆるゆると首を振った。
「いいえ、なにも」
「なら、帰ったらどうだ」
 天使は逡巡するように、ひとみをまたたかせた。
「そんなに僕を休ませたくないわけだな、君は?」
 重ねて言ってやると、天使は身をすくめた。
「あ、いえ、その…すみません。それでは、ロクス…」
 慌てたように、きびすを返す。窓に両手をかけ、ぐっと半身を乗り出し…
 ゴツン。
 鈍い音。同時に、ぱっと白い光が散った。
 驚き、ロクスは寝台の上で組んでいた足を崩した。
「あ…」
 天使の、狼狽した声が上がった。
 一瞬光と見えたのは、白い羽根。ほとほとと床に落ちていくそれが収まって、そこには大きく広げた翼を、窓枠に打ちつけた天使が残された。
 しばらく、沈黙が落ちる。
 ぽつりとロクスは呟いた。
「……ウケを狙ってるのか? 君は?」
「すみません、すぐ出ていきますから!」
 天使が、慌てた口調で身をひねった。
 片翼だけが羽ばたき、またも羽根が散った。動かないもう片方はどうやら、どこかにひっかかっているらしく、翼の先だけが変に震えている。
「え、……あっ」
 あたふたしている様子に、ロクスはため息をついた。勢いをつけ、寝台から降りる。ぎぃと安普請の床がきしんだ。
「翼で僕をぶつ気がないんなら、ちょっとじっとしててくれないか」
 動きを止めた大きな翼を、少し背伸びしてのぞき込む。白い羽根の中から、にゅっと赤錆びた杭が一本突き出ていた。日除けか何かをつるすものらしいそれに、関節の部分が引っかかっている。
 ロクスは、もう一度ため息を吐いた。手を伸ばす。
 風切り羽根に手をつっこむと、わさわさと、指に思ったより硬い感触が触れた。
「…ほら。とれたぞ」
 天使はばさりと翼をたたみ、ロクスのほうへ向き直った。
「あの…ありがとうございます」
 深々と頭を下げられ、ロクスは肩をすくめた。
「もともと窓は、出入りするためのものじゃないんだ。来るときはともかく、帰りは転移の魔法を使ったらどうなんだ?」
 少し困った顔で、天使は首を振った。
「それは、できないのです」
「なんでまた…戒律でもあるってのか?」
 自分で言ってみて、そのばかばかしさに頭が痛くなる。
 天の御遣いたるもの窓から出入りせよって? そんなわけがあるか。
「いいえ、戒律ではありません」
 天使は、まじめな顔で応えた。
「約束をしたからです。私の勇者と」



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