それは、いつわりの時間だった。 始めから存在しなかった、十年の月日。 けれど、いまもこの胸には。 「まだ、なにかあるのか?」 宿の寝台に掛け、問うた騎士にセレンは首をふった。 「いいえ、レイヴ」 そのまま、ふわりと上体を折って礼を取る。 「今日はほんとうにお疲れさまでした。どうぞ、ゆっくり体を休めてください」 翼にあおられた燭台の炎が、男の日に焼けたほおに、赤みを帯びた影を揺らめかせる。 「体調を整えることも、騎士の務めだ。おまえに言われるまでもない」 無愛想な言葉も、彼の常だともう知っていたから、セレンはただ微笑んだ。 少し沈黙があって、男は付けくわえた。 「俺のことより……おまえこそ、少しは休んでいるのか。働き過ぎだのなんだのと、妖精たちがうるさい」 「あの子たちが、そんなことを?」 セレンは首をかしげた。 「けれど、あなたたち勇者を助けるのが私の務めですから…仮に私が働きすぎであるとするならば、レイヴにもそっくり同じことが言えますよ」 男はしばらく無言だった。そこでようやく、気づかわれたのだと気づいて、セレンは笑んだ。 「ああ、…ありがとうございます、レイヴ。けれど、大丈夫です」 遠からず、この世界は真実の時を取り戻すだろう。自分の役目はもう、終わる。 そして、勇者たちに苦難を強いる日々も、また―――― 「もう、あと少しで終わるのですから」 同意も、まして楽観だとのたしなめも、男からは戻らなかった。 「………そう、か」 低い、嘲るような声。 「それで、もう、俺も用済みとなるわけだな」 常の彼らしくない言いように、セレンはとまどった。かすかに首をかたむける。 「レイヴ?」 男は、そのままひたりと口をつぐんだ。うすいくちびるを引き結び、膝の上で握った拳を見つめるようにして、動かない。 かた、かたかた、と窓枠が小さく鳴った。突然、外に吹く風の音が意識されて、セレンは息をひそめる。 「……あの、レイヴ」 息の詰まるような沈黙に耐えきれなくなって、セレンは口を開いた。 「そろそろ、私は失礼しますね」 ゆっくりと頭を下げる。寝台に掛けた姿勢でわずかにうつむく騎士の表情は、陰に沈み、よく見えなかった。 「おやすみなさい。どうぞよい夢を…」 「……セレン!」 張りつめて呼ばれた名が、耳を打った。続けて自らをおそった物理的な衝撃に、セレンは発動しかけた転移の魔法を中断する。 こわばった声は、少し遠かった。 転移の本質は、地上でのかりそめの肉体を解き放ち、望みの場所で再構成することだ。それを妨げられ、うすれかけていた五感が戻ってくる。 気づけば、騎士たる勇者の腕が、身じろぐことさえ許さぬ強さで彼女を壁に縫い止めていた。 その所作に、常の拒絶めいた冷静さはなく。 「レイヴ…?」 困惑を込め、セレンは騎士の名を呼んだ。見上げた男のひとみに苦痛めいた影がよぎり、つかまれた腕の圧迫感が増す。 「……頼む」 かすれた囁きは、思いつめたように低かった。 「そんなふうに、…俺の前から消えないでくれ」 燭台の炎を映して、自分を見つめる濃茶のひとみが赤みがかった色を帯びる。それをひどく美しいと、そう感じながら、セレンはゆっくりとまたたきをする。男のいつもとは違う気配が、ただ不思議だった。 「私がどうかしましたか、レイヴ?」 そっと、二の腕をつかむ手に触れる。 瞬間、男は焼け石に触れたかのような勢いで、腕を放した。ほどけた拘束に、セレンは小さく息をついた。 「セレン……俺は」 男の薄い唇がぐいと噛みしめられ、そしてかすかにふるえた。 けれども、結局どんな言葉も紡がれることなく、大きな吐息となって吐きだされる。 「レイヴ…?」 男は、ゆっくりとかぶりを振った。もう一度、深く息を吸って、吐き出す。 「……すまなかった」 硬い表情、静かな声音。そこにいたのはすでに常通りの彼だった。 「どうかしていた。…忘れてくれ」 「あの、…レイヴ」 セレンは、おずおずと問うた。 「あなたの前で、転移の魔法を使うなということですか?」 インフォスを救うため、もう何年もともに戦ってきた勇者。自分が転移する…実体化を解く姿など、見慣れているはずの。 彼がそんなことを言いだした意図が、わからなかった。 「レイヴ…?」 見上げた男からは、どんな答えも返らなかった。 しばらく考えた後、けれども、自分を引きとめた腕は、言葉は、確かに彼の本心であると思えたから。 「わかりました」 大切な勇者のねがいを、叶えられるものなら、叶えたいと。そう思った。 「あなたが望むのでしたら、そうします。レイヴ」 保証の意を込めて、微笑んでみせる。 ふいに、男が口を開いた。 「……おまえは」 浅く日に焼けた腕が伸びて、セレンの髪の先に、かすかに触れた。 まるで痛みをこらえるように、引きしめられた口の端がゆがむ。 「レイヴ?」 男は、つぶやいた。 「…まるで、人と変わらないのに」 ゆっくりと、腕が引かれる。男は、手のひらに目を落とした。そのまなざしは、セレンの知らない色をしていた。 「おまえには、わからないのだな」 「なぜ、彼がそう望んだのかは…今もわかりません。けれど」 セレンは、ゆるりと胸を押さえた。 人にかたくなで、自らに厳しく。長く共にいながら、彼の弱音を聞いたことなどほとんどなかった。 けれどあの時は。 「とても、辛そうに見えたのです。だから、私は…」 呆れたような、静かな声音がさえぎった。 「ばかだ、君は」 「え」 驚いて、セレンは言った相手を見つめた。 物わかりの悪い子供を見るような目で、紫の双眸が自分を見おろしている。 「それでそいつの望みを叶えたつもりだってんなら、ほんとうに馬鹿だ」 窓からの月光を受けて、銀の髪がきらきらと輝いている。 私の勇者。 「ロクス」 けれど、あの人とは違う。 そう思うことは、なぜか存外に辛かった。 「あなたは知っているのですか? レイヴの望みの意味を」 「そりゃあ、まあ。たぶんね」 しばらく、沈黙が落ちる。そっと、セレンは問うた。 「教えてはくれませんか?」 青年は、軽く法衣の肩をすくめた。 「悪いけど、おことわりだ」 胸がかすかに痛んだ。 「私には、言ってもわからないと思うからですか?」 「そんなんじゃないさ」 ふっと、青年は息を吐き出した。 「…君がばかなら、そいつは大ばかの臆病者だったってだけだ」 それでも天使は、その翼を使って帰っていった。 もうその身を包む光のかけらも見えなくなったころ、ロクスはゆっくりと窓を閉めた。 元通り暗く沈んだ部屋の中、寝台に身体を横たえる。安宿のそれは、ぎいとかすかに軋んだ。 会うこともないその勇者を、ロクスは思う。 臆病な男。求めることのできなかった、告げることのできなかった。 君にはわからない。 その言葉で、天使を拒絶した男。 「…ばかな奴」 けれど、その言葉こそが、今も天使を戒めているのだ。 「……ッ」 舌打ちして、ばさりと掛布をかぶり直す。 頬を押しつけた寝台はひどく、冷たかった。 あなたは、私になにを求めていたのですか? 私はどうすればよかった? あなたはもう、私を忘れてしまったけれど。 低い声にひそんでいた、その痛みだけが、今も私の胸にある。 |