■  約束  ■



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 偽善者は嫌いだ。
 だから、僕は天使のことが嫌いだった。


 酒場のなか、感じた気配にロクスは顔を上げた。
「………来やがった」
 呟いて、手にした酒杯を卓に置く。
「え? なあに?」
「ああ、……ちょっとね」
 ロクスは、肩にしなだれかかる女性のほおをするりと撫でた。そのまま、ふらりと立ち上がる。
「どうかしたの?」
 見上げてくる女性の眉根が、怪訝そうにひそめられる。ロクスは笑って、銀貨を一枚卓に置いた。
「悪いけど、僕はそろそろ行くよ。……ひとを待たせてるんだ」
 混雑した酒場の中はうす暗く、ただよう紫煙もあって視界が悪い。その一角に、うっすら透きとおるように白い光がこごっていた。目をすがめて、そちらを見やる。
「そんなこと言って、どうせ女の人でしょう」
 くすくすと笑いながら、花の色に染めた長い爪先で、女性はロクスのくちびるを押さえた。からかう気配にきらめく瞳を向けられ、ロクスはかるく息を吐いた。
「まあ、そうなんだろうな……一応」
「もう、はっきり言うんだから」
 笑いながらぶつ真似をされ、ロクスは降参と両手を上げた。
「そんなんじゃないんだけど」
「いいわよ、さっさと行きなさいよこの生臭坊主」
 ロクスは苦笑した。
「ああ、お言葉に甘えて。この埋め合わせはまたするよ」
 女性は、ひらひらと手を振った。
「ええ……また、ね。期待しないで待ってるわ、色男さん」
 いたずらめいた声音に笑い返して、ロクスはきびすを返した。ざわめきにまぎれて、つぶやきを落とす。
「……本当に、そんないいもんじゃないんだけどね」


 酒場の扉を開けると、新鮮な夜の空気が胸を満たした。酔いが、だんだんと醒めてくる。
 大通りに面した店の前は宵の口でもあり、人通りが多かった。仕方なく、ロクスは歩きだす。
「……さて」
 まもなく、人通りのない路地を選んでロクスは足を止めた。
 見計らったように、なにもない虚空に美しい女性の姿がこごる。ロクスは、黙ってそれを見上げていた。
 まるでこの世のものではないような、きれいな生き物。
「こんにちは、ロクス」
 それが、口をきいた。
「事件が起こったので、依頼にうかがったのですが……」
 ゆっくりと地に降りたった天使に、ロクスは鼻を鳴らした。
「ふーん。……それはまたご苦労なことだね。天使さまがわざわざ酒場まで、さ」
「はい、ロクス。それが私の務めですから」
 天使は、おだやかにほほえんだ。慈愛と思いやりにあふれた、まさしく天使の笑み。
 ―――胸がむかむかする。二日酔いじみた、いやな感じだ。
 気がつけば、小馬鹿にしたような口調で言い捨てていた。
「せっかく来てくれたところ、悪いけど。今回は遠慮しておくよ。他のやつに言ってくれ」
「ロクス……」
 天使は、憂いにうつくしい貌を曇らせた。
「ここから二日ほどの距離にある街道で、旅人が魔物に襲われ、すでに何人ものひとが命を落としているのです」
 責める口調ではなかった。ただ、困っている声だった。
「他の勇者たちはあいにく、みな遠くにいて……。おもむくことができない事情がおありなら、どうか聞かせてください。なにかお手伝いができることなら、私も……」
「……行けばいいんだろう」
 ロクスは吐き捨てた。虫の居所が悪かったとか面倒だとか、そんな理由は思いついてもみないのだろう天使が、腹立たしかった。
 天使は、いつだって正しい。そして、自身が正しいことを疑いもしない。
 正しいことだからと、当然のように他人にも同じ思考を要求する。
 なにもかもを許し受け入れ、人を助けよと。
 悪意をぶつけられたことも飢えたこともないだろうままに、ご立派な正論を語る天使。こいつに比べれば、虚実と知りながら仁愛を説き、浄財を糧に自堕落な生活を送る聖職者たちの方が、まだましだ。
 その無神経で傲慢な善人づらを、どうにかしてひっぺがしてやりたかった。
「ただし、条件がある」



「こんにちは、ロクス」
 天使が、ふわりと空から舞い降りてくる。
 緑なす草原の真ん中。午後の白い光を背に負ったそれはまさしく一幅の宗教画、その具現だった。
「妖精から、私をお呼びだとうかがいましたが……?」
 ゆっくりと地に降りたった天使に、ロクスは目をすがめた。
「……天使というのは、ずいぶん暇なものらしいな。毎度毎度、僕の呼び出しに律儀に応じてくれるなんて、さ」
 実際のところ、日に一度は呼びだしをかけている。天使はそのたびごとに遅滞なくロクスのもとにやってきていた。
「はい、ロクス。約束ですから」
 天使は、静かにほほえんだ。
『これから僕が呼んだときには、すぐに来てくれ。何をしていようと、どこにいようと。…それが条件だ』
 ああ、そうだな。約束か。
「せっかく来てくれたところ、悪いけど。君の誠意とやらを試させてもらっただけだよ」
「ああ、そうなのですか」
 天使の声音は変わらず素直だった。
「なにかあったのではなくて、良かったです。他には何もないのですか?」
 気を悪くしたふうもなく問われ、ロクスは吐き捨てた。
「とことんひとが良くできているんだな、天使さまは」
 天使は、少しだけ困ったように笑みをひそめた。
「他になにも御用がなければ……私は失礼しますが、ロクス」
「ああ。行っていいぞ」
「はい。それではまた」
 天使は、白い翼を大きく羽ばたかせた。そのつまさきが、ふわりと地を離れる。
 しばらくしてから、ロクスは空を見上げた。
 すでに、広い空のどこにも、天使の姿はなかった。舞い落ちてくるこまかな羽毛だけが、風花めいて陽光にきらきらとかがやいていた。
 しばらくするとそれも、雪のように空気に溶け消える。おそらくは転移の魔法で、この世界自体から退去したのだろう。
「……しぶといな。あいつも」
 ロクスはちいさく舌打ちをした。と、その音に召喚されたかのように、中空に淡い緑の光がともった。
「ロクスさま」
 涼やかな声とともに、光は手のひらにのるほどの小さな女性の姿をかたちどる。
「天使さまから言いつかりましたので……しばらく、私ローザが同行を務めさせていただきます」
「おまえか……」
 思わずロクスは顔をしかめた。
 それがあからさまだったせいだろう、妖精がちりちりと不快げに羽根を鳴らした。
「……ご不満もおありのことと思いますが、ご容赦ください」
 殊勝な言葉をつむぎながらも、その表情には険がある。
 堅物で融通の利かないうえに口うるさいこの妖精が、はっきり言ってロクスは嫌いだった。聞いてみたことはないが、相手も自分に好意を持ってはいないだろうと思う。
 わざわざこいつをつけたのは、もしかして天使の意趣返しか?
 勘ぐった後、ロクスはその考えを放棄した。「試しに」なんてふざけた理由で呼びだされ続けながら、いまだ天使の面に非難や不満の色は見えなかった。
 まるでロクスの考えを裏づけるように、妖精が口を開いた。
「僭越ながら申し上げますと、私以外に身の空いている者がおりませんでしたので」
 ロクスは肩をすくめると、わざとらしく言ってやった。
「へーえ。僕はまた、天使さまともあろうものが、ずいぶん幼稚な嫌がらせをなさるもんだとばかり」
「天使さまを、そのような方だと考えておられるのですか?」
 妖精の声が厳しく冷える。ロクスは、ひとつ息を吐いた。
「いいや、……違うんだろうな、たぶん」
 まったくいまいましいことに。
 しばらく妖精は沈黙し、ついと目を細めた。
「ロクスさま。天使さまのことがお嫌いなのですか」
 ロクスは、妖精に視線を合わせた。口をゆがめて言ってやる。
「ああ、嫌いだね。毎日呼びだされて僕にいやみを言われても、文句一つ言えやしないいい子ちゃんぶりには、吐き気がしそうだ」
 きゃんきゃん騒ぎだすかと思った妖精は、しかし小さくため息をついただけだった。
「……ロクスさま。あなたに、あの方を悲しませることはできても、怒らせることはできませんよ。叱ってほしいのならば、別の方を相手にやってください」
 思わず、ロクスは顔をしかめた。
「だれが叱ってほしいなんて言った?」
「ちがうのですか? 毎日天使さまを困らせるようなことを、故意になさっているようにお見受けしますが」
「……僕は」
 あいつが、根を上げるのを待っているだけだ。
 もうこんな事にはつきあいきれない、いい加減にしてくれと。そうしたら、笑って言ってやる。
 僕ももう、毎日君の「お願い」に従ってひきずりまわされる勇者なんてばかばかしいお遊び、つきあいきれないって。
 そうしたら、いかにも自分は正しいって顔で、今まで人に何を強いてきたのか、ちょっとはわかるってもんだろう。
「ロクスさま?」
「……関係ないだろ。おまえには」
 ロクスは妖精から顔を背け、草原を歩き出した。
 妖精の小さな吐息が、やけにはっきりと耳に届いた。



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