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 そしてある日、天使は来なかった。
 呼びにやらせた妖精も、戻ってこない。
 ロクスは妖精をやった昼間からずっと、酒場で天使を待っていた。酒場が閉まるまでそこでねばってから、そのままそこの二階にある宿へと移動した。
 ―――なるほど。
 冷たい寝台の上で、あぐらをかく。ロクスは、律儀に待っていた自分自身に呆れてため息を吐いた。
 よく考えれば、当然ありえる話だった。約定がけして破られないなんて、どうしてそんな子供じみた信頼を抱いていたんだろう。
 おそらくは、さぼりでも無視でもない。他の勇者になにかあったとかそんな、「正当な」理由だ。たぶんそのうち、申しわけなさそうな顔で、事情を説明しに来ることだろう。ばかばかしい。
 来られるときだけやってくることが、苦痛になんてなるわけもない。
「……さて」
 どうしたものか。
 天使の言いわけは、だいたい想像がつく。考えるべきは、それにどう応じてやるかだ。
 『正しい』理由で来なかっただけの天使さまを非難してみても、彼女は自分の正しさを理解してもらえなかったことに悲しみ、理解しない自分を哀れんでくださるくらいだろう。
 しかし、酒の回った頭でそれ以上考えをめぐらすことが、ひどくおっくうだった。
「……寝よう」
 呟いて、ロクスは寝台に身を横たえた。
 ひんやりとした敷布は、火照った身体に心地よかった。酔いもあって、すぐに意識は沈んでいく。
 その最後のひとかけらが、消える直前。
 部屋の中に、ふわりと、白いひかりが現れた。

「……ロクス」
 力のないささやきだった。
 まぶしさに目を細め、ロクスは身を起こす。
「おまえ、………」
 とりあえずなじってやろうと思っていた出鼻を、くじかれた気がした。
「ごめんなさい…… ……遅くなりました」
 それは光そのものだった。常の、定まった形在る姿ではない。
 よく見れば、うっすらと乙女の姿にも見える。唖然として眺めているうちに、光はだんだん薄くなり、そこには乙女の影だけが残された。
 そのしろい影はひどく幽霊じみて、後ろの壁が透け見えている。どうひかえめに見ても異常だった。
「おい、その格好は」
 動揺から立ち直って、ロクスは寝台から腰を上げた。天使に伸ばした指先は、予想に違わずすり抜ける。
「遅くなった上に、このような姿でうかがい……ほんとうに申しわけありません」
 天使の影が、ゆっくりと頭を下げた。
「すこし力を消耗してしまっていて、実体化できないのです」
 天使に体調の変化があるとも思えなかったが、透ける彼女のほおは青ざめ、どことなく苦しげにも見えた。
「大丈夫なのか……?」
 思わず、案ずるような声音がもれた。天使は軽く目を見開き、ふわりと微笑んだ。
「ええ、ロクス……心配してくださって、うれしいです」
「だれがそんな……」
 反論しかけて、口をつぐむ。ロクスは崩れた前髪をかきあげた。
「……もういい。さっさと帰れ」
 天使は、不思議そうに首を傾げた。
「私に御用だったのでしょう? ロクス」
 ロクスは顔をしかめた。こんなになってまで、どうしてこいつはこんなことを言うのだろう。
「それは嫌みか? 用事なんてあるわけないだろう。いつものことだ」
 早口に続ける。
「だいたい用があったところで、そんな死にそうな顔した君に何を頼めるってんだ? 天使なら自分の身の管理くらいきちんとしておけ」
 さんざん身勝手に彼女をふりまわしてきた自分が言える台詞でもない。口にしてから気づいて、ロクスは舌打ちをしたくなった。
 なのに天使はあろうことか、本当にうれしそうに唇をほころばせたのだ。
「ロクス、……あなたは、やさしいひとですね」
 思わず、ロクスは天使の顔を凝視した。ほほえむ天使は、幸せそうにさえ見えた。
「………ばかじゃないのか?」
 声から、毒気が抜ける。今自分の顔を鏡で見たら、さぞ間の抜けた面に見えるだろう。
「僕の、どこをどう見てそんなこと」
 天使は、うっとりするほど甘くやさしい微笑を浮かべた。
「あなたは、断る自由を持ちながら、勇者となることを引き受けてくれました。そして、いつかの約束をした日も……人が苦しんでいると聞いて、依頼を受けてくださったでしょう?」
「あれは……僕はそんな、別に……」
 ロクスは何と言っていいかわからず、口をつぐんだ。
 天使は微笑むと、ゆっくりその長いまつげを伏せた。
「私は光、私は善、……私は正義です」
 傲慢なまでの自己肯定でありながら、その言葉はひどくたよりなげにひびいた。
「善たることを本質として与えられたゆえに、罪を犯す自由をはじめから持っていない。その手に選択をゆだねられながら、やさしく在れるあなたのほうが、ずっと、ずっと、すばらしいと……私は思います」
 天使の微笑み。慈愛と思いやりにあふれた、大嫌いだったその仮面。
 その表情の下で、今。
 ……天使が泣いているように、ロクスには見えた。
「あなたが私を厭うのは、当然のことなのでしょう。私は善を選びとることにともなう苦しみも何も知らず、あなたたちをほんとうに理解することも叶わず……そしてそれを知っていてもなお、そのようにしか在ることのできない存在です」
「………おまえ」
 ロクスは、呆然とつぶやいた。
 知っていたのか。そして、知ることのできない自分に、苦しんでいたのか。
「……私は」 
 天使は、微笑みながら、泣いていた。
「私は……あなたたちが、うらやましい」


 どくん、と。
 突然の激情が、ロクスの胸を押したたいた。
 ―――― きみが…
 自分でもひもとけない感情が一気に押し寄せ、それまで考えていたすべてを押し流す。
 きみが、人間がいいというのなら――――
 心臓が早鐘のように打っている。ひどく、口の中が乾いているのをロクスは意識した。
 それなら。それならば……
 うずまく言葉がはっきりとしたかたちを取りかけた、そのとき。
 天使の震える声が、空気を揺らした。
「………ごめんなさい、ロクス」
 天使は、その白い両手で顔を覆った。微笑みが、その下に隠される。
「私、……帰ります」
 そのまま、ふい、と天使の影はかき消えた。
「あ、………」
 ひとり、暗闇に取り残されて。ロクスは、中空に伸ばした己の手を、ぼんやりと見つめた。



 それからの日々は、最後までおだやかに過ぎていった。
 天使は、ずっと天使の笑みを崩すこともなく。
 ロクスが天使を呼び出すことは、……もうただの一度もなかった。
 そして、季節は巡り。すべてが終わる日が、やってくる――――



 湖は、そして、世界は、きららかなひかりに満ちていた。
「天界へ帰るのか」
 ロクスはごく軽い口調で、尋ねた。
 ひかりの反射を受けて、天使の白い翼もちらちらと輝いている。
「はい、ロクス」
 天使は、常と変わらぬ笑みでうなずいた。背の白い翼が、ゆるやかに広がる。
「また、地上に降りたときには会いに来てくれ。いつでも歓迎するよ。あ、今度はつまらないことで迷惑かけないつもりだ」
 ロクスは笑った。
 自分でも違和感を覚えるほど、明るい早口。何でもいいからしゃべっていなければ、なにかおかしなことを口走ってしまいそうだった。
「はい、わかりました」
 天使は微笑む。おだやかに。ばさりと、大きな翼がひらめいた。
 ああ、これを言えば、もう最後だ。安堵しているのか恐れているのか、自分でもわからない。

「さよなら、天使さま」
 それでも、笑って言えたはずだった。

 ふわりと浮き上がりながら、天使は最後まで、ほほえんでいた。
「……さようなら、ロクス」






「猊下、どうかされましたか」
 聖堂をつなぐ吹き抜けの渡り廊下で、猊下と呼ばれた青年は、ふと足を止めた。紫紺の法衣の裾を揺らし、ゆったりとした足取りで柱の間をすり抜け中庭に降りる。
「ああ……いや」
 青年は、冬の空を見上げた。
 うすい色の日差しに、ちらちらと風花が舞う。
 きらきらと舞い落ちる、細かな羽毛のように。けれど広い空のどこにも、乙女の姿はなかった。
「おや、雪ですか。今年はまた、ずいぶんと早い」
 青年は、言葉もなくただ空を見ていた。並んでいた壮年の司祭が小さくため息をつく。
「それでは猊下、私は説法がありますので……」
 静かな足音が遠ざかる。そして消えた。

 天使の羽が降る、曇天のもと。
 しん、と―――― まるで世界にひとりきり取り残された静けさの中で。
 空を見上げ、ぽつりとロクスは呟いた。

「……来てくれ、天使さま」
 後悔している。最後まで、君が笑顔の下で泣いていたのを知っていて。
 逃げた自分の、意気地のなさを。
 後悔している。
 ―――― だから、今来てくれれば、言える言葉があるのに。

「僕が呼べば、すぐに来てくれるんだろう……?」
 ほおに触れた雪が、溶けてするりとすべり落ちた。


「……約束を」







fin.


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