彼を信じていた。 けれど同じほどの強さで、彼でしかありえないと思えてしまったんだ。 だから、僕は…… 「……柳様……一柳様……」 手にしたカップのなか、ポタージュのとろりとした水面に、和はぼんやりと視線を落としていた。 「どうかなさいましたか?」 視界に、白い手袋に包まれた手があらわれた。低い声音が耳を打つ。 「え、……わ、うわっ!?」 「一柳様!」 鋭い声が飛んだ。カップを取り落としかけたところを、ぐっとつかまれた手首の感覚に引きもどされる。 我に返って、和は顔を上げた。かたわらに立っていた男がわずかに驚いた顔で、その左手を伸ばし、食卓についた和の手もとを支えていた。 「あ、執事さん……」 揺れてかたむきかけた水面が、和からそっとカップを取りあげたディートリヒの手もとで凪いだ。 「申し訳ございません、一柳様。私が驚かせてしまったようですね」 「い、いえ、すみません! 僕、ぼうっとしていたみたいで……」 「……どこか、お加減でも?」 抑揚のない声には、案じるような気配がある。わずかに身をかがめてこちらをのぞきこむディートリヒと、目を合わせることができずに和はうつむいた。 「だいじょうぶです。その……ちょっと、食欲がなくて。あ、でもちゃんといただきますから!」 「召し上がってくだされば、たしかに私は安心ですが……ご無理をなさらずともよろしいのですよ」 気づかうように告げる彼の声は、何の含みもなく、ただやさしい。 この一週間、ともに事件を追い、多くの時間を共有した今ならそれがよくわかった。ほとんど動きのない面立ちの上に、ごくひかえめに示される彼の心の動きが。温度のない声にひそむいたわりが。 「…………あの、執事さん」 「はい」 「本当なら、今日が帰る予定の日でしたよね」 「ええ……ですので、今日明日中には本邸から誰かが様子を見にくるでしょう」 うつむいたままでいると、ディートリヒがことばを継いだ。 「本日まで、誰の身にも大禍なく過ごせて何よりでした。……けれどそれは、あなたがいてくださったからこそだろうと思うのです。感謝致しております、一柳様」 「……いえ、僕は……」 ことばをにごし、和は手つかずだったクロワッサンを取った。一口大にちぎって口に運ぶ。香ばしく焼きあげられたそれは、今はバターの風味ばかりが舌に残って、胸焼けがしそうだった。 最後の一口を無理矢理飲みこんで、息をつく。 「……お茶をお淹れ致しましょう」 その様子を見て取ったのだろう。ディートリヒがティーサーバーを取りあげた。 右手をかるく銀色のふたに添え、なめらかに動いた左手が同じく銀の取っ手をかたむける。紅く澄んだ液体が、白地に青の模様がついたティーカップへとそそがれていく。 「どうぞ」 茶器のふれあう音もなく、静かにカップが目の前に置かれた。 「ありがとうございます」 礼を言って、口をつける。茶葉の種類が違うのだろう。以前に彼が供してくれたものよりくせのない、すっきりとした味わいだった。気づけばカップは空になっていて、和は自然と浮かんだ笑顔を向けた。 「……ごちそうさまでした。すごくおいしかったです」 「左様ですか。恐れ入ります、……」 わずかに口もとをゆるめてほほえんだディートリヒが、ふと何かに呼ばれたように、その視線をさまよわせた。 誰か来たのだろうか。近づく者の足音を常に聞き取る彼の耳聡さを思いだして、和は食堂の扉を見やる。 「……一柳様」 けれど、ディートリヒが次につむいだことばは、予想とは異なるものだった。 「お食事がお済みでしたら、私はこの後、伯爵に呼ばれておりますので…何か御用があれば今のうちにうかがいますが」 「えっ?」 思わず声を上げた和に、ディートリヒが怪訝そうな顔をした。 「……あ、いえ、その、すみません……」 「御用がおありではないのでしたら、また後ほど」 口ごもるうちに、あっさりとディートリヒは身を折った。そのまま出て行こうとする彼を、あわてて和は呼びとめた。 「ま、待ってください!」 扉のノブに手をかけたところで、ディートリヒが足を止めた。静かにふり返る。 「何か?」 いつもと変わらないはずの無表情で、彼はじっとこちらを見ている。和は、ごくりとつばを飲みくだした。 「……お話ししたいことがあるんです」 意を決して、ことばを告げる。 「お急ぎですか?」 「は…はい。できれば、今、すぐ…」 言いながら、だんだんと自分の声が小さくなっていくのがわかった。 ディートリヒが目をほそめた。くちびるの端がかすかに上がる。 「結構ですよ。話しにくいお話のようですね。私の部屋で、うかがいましょう」 廊下を先に立って進むディートリヒが、自室の前で扉を開けて、その身をわきへと引いた。 「どうぞ。お入りください」 「失礼します……」 おずおずと足を踏みいれる。落ちついたモノトーンでまとめられた室内には、私物らしきものも少なく、入り口横に置かれた背の高い照明器具と、ベッドスタンドに置かれたランプがぼんやりとあたりを照らしだしていた。 背後で、ぱたんと扉の閉まる音がする。和はあわててふり返った。 ディートリヒが、無表情にこちらを見つめている。 居心地の悪い沈黙に、和は左右に視線をさまよわせた。 「ええと……」 「……どうされました? 何か、私に話がおありだったのでは」 「い、いえ、その……あ」 背の低い棚の上、電子レンジに並べて置かれたコーヒーメーカーが目に入った。思いつくままにことばをつなぐ。 「執事さんって、コーヒーも飲むんですね。いつも紅茶を飲んでるようなイメージがあったんですけど」 「ああ…」 ディートリヒの視線が、和に合わせてそちらへ動いた。 「そうですね。紅茶を口にすることのほうが多いのですが、書き物をするときなどには、眠気覚ましと気分転換も兼ねて。…お淹れしましょうか?」 「あ、はい、よろしければ」 間を持たせられるのならば何でもいい。内心ほっとして和はうなずいた。 棚に歩みよると、ディートリヒは抽斗からコーヒー粉が入っているらしき瓶を取りだした。コーヒーメーカーに紙のフィルターを取りつける。それから瓶のふたを開けようとしたところで、ディートリヒの動きが止まった。 どうやら閉め方がきつかったらしい。わずかに眉を寄せてから、左手でしっかりと瓶を持ちなおし、もう片方の手でふたをひねる。 何度か力を加えた様子ののち、きんと澄んだ音を立てて、金属製のふたが動いた。 ディートリヒが軽く息を吐いた。ふたを置いた手でスプーンを持って、中の粉をすくう。 その様子を、ぼんやりと和は眺めていた。 やがて、香ばしい香りとともに、湯気を上げるカップが差しだされた。 「どうぞ。あまりコーヒーには凝っていないものですから、お口に合いますかどうか…」 「いえ、ありがとうございます。いい香りですね」 白いカップを鼻先に近づけ、和は大きく息を吸った。 そっと口をつける。 「……ッ!」 次の瞬間、和はカップを引きはなした。思うより熱を持った液体に、舌先がぴりぴりとした痛みを訴える。 「ああ、申し訳ございません。少々、熱すぎたようですね」 同じようにカップにくちびるをつけ、ディートリヒがつぶやいた。 「すみません、僕、猫舌で……」 もごもごとつぶやくと、小さく笑うような吐息が聞こえた。 「執事さん?」 口もとをつと上げた手で押さえて、ディートリヒが目をほそめた。 「いえ、少し、思い出しまして…一柳様はご存じでしょうか。コーヒーを指して、このような言いまわしがあるのですよ」 「はい?」 ゆっくりと、口もとを覆っていた手を下ろしたディートリヒは、かすかな笑みをたたえていた。 「……悪魔のごとく黒く、地獄のごとく熱く、恋のごとく甘美なもの、と」 「へっ?」 「なかなか、うまく言ったものだと思われませんか」 僕がやけどをしたから、その温度を指してそんなふうに言っているのだろうか? ディートリヒの言動にとまどいを覚えて、和はまばたきをくり返した。 わずかに混乱しながら、手に包んだカップに口をつける。 今度は慎重に、少しずつ含んで、甘く苦い液体を飲みくだしていく。くちびるをつけた水面は、室内のうす暗さもあいまって、それこそ闇のように深く暗い色をしていた。 「……ごちそうさまでした」 ようやく飲みほし、和は息をついた。ディートリヒは自分のカップを手にじっとこちらを見つめていた。 「いいえ、……それで、お話とは? 事件のことでしたら、昨晩おうかがいしたはずですが」 「……その……昨日、あれから、考えていたことがあって」 「はい」 自分を見ている薄青いひとみが、灯りを背にして、暗い碧に沈んで見えた。 コーヒーの後味と、それ以上に緊張のせいか、口の中が酸っぱく乾いていく。あえぐように、和は息を吸いこんだ。 言いたくなんてない。でも、それでも。 「執事さん、あなたが……」 まっすぐに彼の顔を見つめようとして、目の奥が熱くなった。視界がゆらぐ。 「……あなたが、吊り橋を落とした犯人なんですね」 ずっと、引っかかっていた。 鍵がなければ行くことのできない…そして、二日目の朝には既に落ちていると思われていたはずの吊り橋。実際に吊り橋を落とすのに使われただろう彫刻刀。そして最後に、昨日の晩、彼自身が言ってくれたことば。 『…吊り橋と同じことでしょう。我々の計画にないことを行っている誰かがいる、ということです』 四日目の深夜に、和の部屋の前を通って廊下の奥へ消えていった髪の長い女性の幽霊。それは自分ではないと言ったクレアの言を受けて、ディートリヒはそう言ったのだ。 自分の見た幽霊の後ろ姿からいって、扮することができそうなのは、クレア本人か、多少小柄ではあるがネリー、もしくは…… そして、鍵だ。 たとえ玄関ホールの鍵がディートリヒの持つもの以外に複数存在しようとも、狂言の要となる品だ。厳重に管理されていたであろうそれを、狂言の計画上鍵を必要としないクレアではまず借り受けられない。 ネリーならば、仕事柄、鍵の保管場所を見つけ、悟られずに持ちだすことはできたかもしれない。けれど、彼女の膂力で、彫刻刀を使って橋を落としたと考えるには無理がある。何より、彼女は橋の落下が狂言であるという事実を知らなかった。 幽霊を装った人影が、橋を落とした何者かと同一人物だとするなら……もう、それに当てはまる人は、ひとりだけだ。 「……なにか、わけがあるんですよね? アルに…嘘をついてまで、そんなことをした、理由が……だって」 気を抜けば涙がこぼれてしまいそうで、和はうつむいた。必死に声をしぼりだす。 だって、アルを心配していたことも、僕に見せてくれたやさしさも、嘘じゃなかった。 それだけは確信が持てたから。 顔を上げられずにいた和の上に、くっとのどの鳴る音が降った。 「……っ、失礼」 「執事、さん…?」 とっさに顔を上げる。目の端から、冷たいものが流れ落ちるのがわかった。 目をほそめ、くちびるの端を上げて、ディートリヒはほほえんでいた。 カシャンと、手にしていたカップを卓のソーサーに置いて、そのまま彼の右手がのびる。カップのなか、こぼれそうに揺れる黒い水面に気を取られた和のほおに、白い手袋に包まれた指先がかかった。 「まったく……あなたは面白い方ですね」 ゆっくりと和のまなじりをぬぐって、ディートリヒは一歩身を寄せてきた。 思わず、和は後退った。一歩後退るたび、ディートリヒもこちらへ近づいてくる。 おかしい。―――何かが、おかしい。 彼の見せた仕草のどこかに、決定的な違和感があった。 それが何かを考えようとして、けれど、混乱した思考は端からこぼれ落ちていく。 「……一柳様」 後ろに下がろうとした足がもつれた。床にしりもちをつく。 ディートリヒが、目の前に片膝をついた。 いつのまにかその面差しからは笑みが消え、いつもの…いや、似ているようで、普段の無表情とはやはりどこかが違っている。 ディートリヒの右手が、助け起こそうとするように和の手首をつかんだ。 「あなた……あなたは、誰ですかっ!?」 とっさに自分の口から放たれたことばの唐突さに、和は動転した。けれど、それが耳に届いた次の瞬間、その疑問こそが、いまだかたちを捕らえきれないパズルのピースを組み合わせた結論だと気づく。 ディートリヒが、わずかに目をほそめた。 「どうなさったのです、突然……私が、私以外の何だとおっしゃるのですか?」 「執事さん……ですけど、でも、違う……あなたは違う!」 つかまれた手を、渾身の力でふりはらう。 ぱしっと乾いた音がひびいて、そのまま室内から音が消える。 しばらくの間、目を見開いて沈黙していたディートリヒが、ふいに小さく声を立てて笑いだした。 「し……執、事、さ……?」 舌がもつれる。くつくつとのどを鳴らしながら、ディートリヒが和の両肩をつかんだ。 「……名探偵だとかって触れ込みも、あながちあの野郎の与太話じゃなかったってことか」 笑みを含んだ酷薄な声音に、血の気が引いていくのがわかった。 ゆっくりと、ディートリヒの唇がつり上がる。一変した眼前の気配に、体ががくがくとふるえだす。 「おいおい、さっきの威勢はどうしたってんだ? おれをがっかりさせないでくれよ、名探偵」 しりもちをついたまま、せめて後ろにいざろうとしても、腕に力が入らない。鼻で笑って、見知らぬ男は和ににじり寄った。 「ああ、お前の言うとおりさ。……おれは」 「……ッ!」 男の整った顔立ちが、すぐ目の前にあった。 呆然とするうちに、ぬるりとなま温かいものが口腔に滑りこんできた。 やけどした舌先に、ちりっと痛みが走る。男の舌は、ひっこめようとした和のそれをからめとり、きつく吸いあげた。 ぞわりと、背筋をしびれにも似た感覚が駆けあがる。反射的に、和は押しのけようと男の胸に手をついた。その腕を反対にぐいとつかまれ、引きよせられる。 「っ、……う…!」 男の舌先が和の歯列をなぞり、口蓋を強くなめあげる。ますます深くなったくちづけに、和は首をふった。あごをきつくつかんだ手がそれをいましめる。 骨のきしむような痛みと、息苦しさで涙がにじんだ。流しこまれる唾液がわずかに甘い。くちびるの端からあふれたそれが、首すじへと伝い落ちていく。 気づけば、背中が床についていた。 のし掛かっていた男が、わずかにくちびるを離した。和の顔をのぞきこむようにして、ささやく。 「……おれが怖いか? 怖いんだろう、震えてるぜ」 扉の横のぼんやりとした灯りが、スーツの肩をすべり落ちる銀の髪をふちどっている。開いたままの口で切迫した呼吸をくり返しながら、和は呆然と男を見つめかえした。 和を閉じこめるように手をつき、見下ろしてくるその表情は、とぼしい光の下ですらはっきりとわかるほどに楽しげな笑みにゆがんでいた。 「なあ、名探偵。この城の間抜けどもはこれっぽっちも気づいちゃいないだろうが…ずいぶんと、おれの邪魔してくれたよなあ」 暗い碧のまなざしは、ぞっとするような愉悦を帯びている。耳もとにくちびるを寄せ、男はささやいた。吐息が耳をくすぐる。 「あれだけのことをやりやがった上に、しまいには、おれのことまで引きずりだしちまった」 「………!」 それは、どういう。問いかけは声にならず、和はくちびるをふるわせた。やさしいとさえ思えるほどの手つきで、男は和のほおをなでる。 「まったく、たいしたヤツだよ……頭っから食っちまいたくなるくらいだぜ」 ゆっくりと半身を起こすと、低く笑って、男はその右手を己の口もとへ寄せた。白手袋の先を食み、ずるりと引き抜く。 さらされた長い指に、ふっと和は場違いなことを思いだしていた。 いつも手袋をきっちりとはめている彼が、一度だけ、素肌をさらしているのを見たことがあった。 台所で、昼食の下ごしらえをしているところに出くわしたのだ。小さなナイフでスルスルと、器用にじゃがいもの皮をむく指。料理は好きなのだと、そう言って照れたように笑った顔。いつになく楽しそうだった彼を思いだしながら、和はぼんやりと男の指を眺めた。 ……なんだろう。何かがひっかかる。 巡らせようとした思考を破ったのもまた、同じその指先だった。 かちゃりと、冷たく鳴った金属音に、和は我に返った。力まかせに腰のベルトが引き抜かれる。和の体にまたがったまま、男はついでのように己のクロスタイをむしり取り、ベストの釦を外すと、濃灰色の上着ごと背後に投げすてた。 「な、なに、する……ッ」 ふたたび覆いかぶさってきた男の舌先が、首すじに押しつけられる。ぺろりと舐めあげられて、それから唐突な痛みが襲った。 「いっ……!」 噛みちぎられるのではないかと思えるほどの力で歯を立てられ、恐怖に身がすくむ。 そのこわばりが解ける間もなく、男の乾いた指先が、和のズボンと下着を押しのけ、無遠慮にその下へと触れた。 ひっと小さな叫びが口をついて出る。こわばった身体に頓着せず、男の指は探るように後ろへとすべった。そのまま押し入ってくる鈍い痛みに、反射的にその体の下から抜けだそうとよじった体を、もう一方の腕で簡単に押さえこまれる。 内からまさぐる動きは、玩具を扱う子どものように気まぐれで乱暴だった。何度も、圧迫感に息が詰まる。最後に、ぐるりと荒っぽく中をかき回して引き抜かれ、内臓を引きずられる感覚に、和はうめきを上げた。 酸素を求めて、浅く、短く呼吸をくり返す。脳貧血だろうか、ひどい眩暈がして、手足が冷えていた。力が入らない。 自分のものとも思えない、鉛のように重い脚を、無造作に男が抱えあげた。着衣が引き抜かれる。 かすむ目をこらす間もなく、先ほどとは比べものにならないほどの衝撃が体を襲った。 「………ッ、あ……!」 声にならない叫びが、のどから漏れた。 視界が、ちかちかとまたたく赤と黒に占領される。ただ、灼けつくような痛みから逃れたい一心で和はもがいた。 のし掛かってくる体が重く、熱かった。肩を押さえつける男の力は、人のそれとは思えぬほどに強い。必死にその腕を、胸を押し返そうとあがく指が、男のシャツにしわを寄せる。 「しつ…じ、さ、ん、…ふっ」 哀しいのか恐ろしいのか、わからないままに涙がにじんだ。 目の前の男が、これまで自分とともにいてくれた彼と同じ人だとは到底思えなかった。けれど、他に呼ぶべき名が、自分の中には存在しない。 「そんなヤツ、呼んだって出てきやしねえさ。……おまえは、おとなしく、おれに食われてりゃいいんだよ」 男の声が、熱にうかされたようにかすれている。かすかな血のにおい。絶え間のない水音が耳につく。 耳をふさぎたくとも腕が上がらず、和は弱くかぶりを振った。 男の荒い息が首にかかる。自分の体の中で、自分でないものが動いている。身を裂かれるような熱い痛みと、内腑を押し上げられる感覚。 「やめ……、あ、……あ!」 制止の声が途切れる。さらに奥へと入ってくるものから逃れようと、和は背中を浮かせ、のけぞった。 「いや、だあ……たす、けて……執事さん……ッ」 ふいに、男の右手が和ののどもとにかかった。容赦のない力でぐいぐいと絞めあげてくる。 低く押し殺された声が、耳もとに落ちた。 「……呼ぶなって言ってんだろうがよ」 頭に血が上る感覚に、和は男の手に爪を立てた。苦しい、と言ったことばは声になったかどうか。 手にこめた力はゆるめることなく、身勝手に和の体をゆさぶって、男は低くうめいた。 ふいに、切れ目なく続いていた激痛がやわらぐ。けれど息苦しさは、もうもがくこともできないほどで、すうっと視界が暗くなっていくのが、まるで他人事のように感じられた。 「……さて、お別れの時間だぜ、名探偵」 遠ざかる意識が、わずかに引きとめられる。低く艶めいた声が、ぼんやりとした頭にすべりこんだ。 「おれを見つけたごほうびに、最後のお楽しみを取っておいてやるよ」 何を言われているのか、ことばは聞き取れるのに、意味がわからない。 「見立ての準備ができるまで……なあに、そんな長いことじゃねえ。おとなしく、いい子で眠ってな」 かすかに笑う気配がして、くちびるに冷たくやわらかなものが触れた。 「じゃあな」 和は、ゆっくりと目を開けた。 見慣れない色の天井に、ひとつまばたきをする。 「……僕……あれ、……ここ」 つぶやいた声は、ひどくかすれていた。まるでひどい風邪で寝こんだ後のように、全身がだるい。 背中が冷たくて、視線を動かすと、横に寝台の脚があった。転げおちて、床の上で寝ていたんだろうか。 ずいぶんひどい夢を見た気がする。 ゆっくりと上体を起こそうとして、走った鈍痛に思わず腕の力が抜けた。 「………ッ!」 痛みが、ぼうっとしていた頭を正気に引き戻した。 もがくように、和は立ち上がった。その途端、うす暗い部屋のすみで動いた人影にぎょっとして体を向ける。 「あ………」 思わず、安堵まじりの息がもれた。そこにいたのは、おびえた顔でこちらを見つめ返す自分自身の姿だった。壁際に、大きな姿見が置かれていたのだ。 そこで、自分がもとのように衣服を身につけていることに気づく。 ………本当に、夢だった? 体中が痛むのは、ただ転んでひどく打ちつけたか何かで…… 一瞬そんなことを思ってから、鏡の中の自分に見つけた痕跡に、和は息を飲んだ。 ハイネックの首もとから、赤黒いあざがのぞいていた。 苛立ちと欲望を帯びた目で、その手を自分の首へとかけた彼の姿がよみがえる。 思わずのどもとを押さえて、それから、和は目を見開いた。 「右手……」 ずっと感じていた違和感の正体。ぱちりと、欠けていたピースがはまりこむ。 あざは、自分から見て首の左側にくっきりと残されていた。向かいあって絞めつけられていたのだから、ここにかかっていたのは右手のはずだ。 ……じゃがいもをむく彼が、ナイフをにぎっていた利き手は、左手だった。 混乱しそうになった思考が、引きずられるようによみがえった声に、すうっと冷めていく。 『見立ての準備ができるまで……』 よろめきながら扉を開けたところで、ぐっとこみ上げる吐き気に和は壁に手をついた。そのまますがるようにして、足を進める。 ディートリヒの部屋のすぐとなり、宝物庫の扉を開けた。見まわした室内は、薄闇に沈んでいるばかりで異状はない。 見立てというのが、あの不気味な手記の内容を指すとするなら… ハイネックを引っぱりあげて首筋を隠すと、力をふりしぼって、和は歩きだした。ほどなくして、アルノルトの部屋の前にたどりつく。 「アル……アル!」 扉を開いて呼べば、城の主が奥から顔を出した。 「やあ、和……」 そこで、アルノルトの表情が険しくなった。 「どうしたんだい、すごい汗だ。顔色も悪い」 足早に歩み寄ってきたアルノルトの腕が、和の体を支えた。 「すぐ休んだほうがいいよ。今、ディーターを呼ぶから…」 頭を上げたアルノルトの袖をつかんで、和は首を振った。 「僕のことはいいから…すぐ、執事さんを探してほしいんだ」 「えっ? …いないのかい?」 うなずけば、アルノルトの表情が不安げにくもった。 「アルは、先生か日織といっしょに隠し通路を見てきて。一番地下にある部屋全部と、それから、迷路みたいになってるところ」 「でも、和……」 支える和の体を気づかってか、逡巡するアルノルトに和はことばを重ねた。 「たぶん、一刻を争うんだ。僕も、他の心当たりを見てくるから……!」 「……わかった。それじゃ、和も気をつけて」 うなずいて、クレアの部屋のほうへと走りだしたアルノルトの背中を見送る余裕もなく、和もできるかぎりの速さで、昇り階段へと向かった。手すりをつかんで、一段一段、必死に体を引き上げる。 眩暈と吐き気にしゃがみこみたくなるのをこらえながら、地下一階の廊下を左右に見やった。 階段から左手に折れて、数歩。けっして体調のためばかりではなく、震えの止まらない足を動かす。 もしかしたら、今もまだ、自分は、悪い夢のつづきを見ているだけなのかもしれない。 はかない希望を捨てきれないままに…… 「………執事さん……?」 わずかに開いたアトリエの扉へ、和はそっと手をかけた。 立ちつくす和の髪を、植えこまれた薄紅の花群れをゆらして、風が過ぎていく。 まだ弱々しい午前のひざしが降りそそぐ、日当たりのよい墓地の一角に、その碑はあった。 名前を刻んだだけの、冷ややかな石一枚。この下にあの人が眠っているのだなんて、今でも、悪い冗談のような気がしていた。 ………どうして、こんなことになってしまったんだろう。 同じことを、あれから何度も、くり返し考えている。 たくさん話をした。お茶を淹れてもらった。ささやかな約束をいくつも交わした。 アルのことを話す、本当に幸せそうな表情を見ているのが、好きだった。 和は、そっとのどもとを押さえた。 もし、あの日、最後にあらわれた彼こそが本当の『彼』だったのならば。 「………僕といっしょにいてくれたあなたは、誰だったんですか?」 小鳥が鳴いて、軽い羽音が耳をかすめた。 「なんですって、和さん?」 少し離れて自分を待っている日織の問いかけるような声に、和は首を振った。 「ううん、…なんでもない。なんでもないよ、日織」 ゆっくりと、ひとみを閉じる。 わずかに口もとをゆるめてほほえむ彼を思いだそうとして、うまくできずに目の奥が熱くなった。 どこまでが僕の好きだったあなたで、どこからがそうではなかったのか。 告げる相手を見失った感情と、解を持たない問いかけは、忘れることのできないままに、いつまでも僕のなかでくすぶりつづけるのだろう。 そのすべてを受けとるべき人は、もうどこにも存在しないのだから。 fin. |