■  沈黙の毒  ■



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「それじゃ、行ってくるね、アル」
 城主の部屋、白い扉のノブに手を掛けて、和はふり返った。
 視線の先で、アルノルトがわずかに眉を寄せる。
「和……」
 彼の柔和な面だちからは、見る者を安心させるようないつもの微笑が消えていた。
 アルノルトの思いつめようは、まるで、今この城で起きている事態のすべてが己の責任の範疇にある、そう捉えているかのようだ。
 事件を起こしているのは犯人であって、けっしてアルのせいなんかじゃないのに。
 そう言っても、きっとアルノルトは首をふるのだろう。
 三笠が姿を消してから、すでに一昼夜。不安で不安で仕方なくて、何もできずにいる自分が心底情けなくて、でも、そんな彼の前で、弱気なそぶりを見せるわけにはいかない。
「晩ご飯まだだし、お腹が空いたらいったん戻ってくるから」
 意識して、和はアルノルトへとほほえみかけた。普段の彼ほどうまくはできなくとも、せめて、気持ちを軽くしてあげられたなら、と願いながら。
「……わかった。気をつけてね、和」
 弱々しく、それでも笑みを返してくれたアルノルトにほっとして、和は部屋を出た。
 続く応接室の扉から、そっと廊下をうかがう。人影がないのを確認して、扉の陰からすべり出た。
 足音をひそめ、数歩。ディートリヒの部屋の前で、和は足を止めた。大きく息を吸い、吐きだす。ノックをしようとしたところで、和は逡巡した。
 ふいに、ディートリヒの低い声が脳裏によみがえる。
『……脅迫の件は誤解だと解決したというのに、何故、こんな異常な事態が続くのでしょう』
 つい昨晩のことだ。疲れきったアルノルトの寝顔を、沈んだ表情で見守るディートリヒを見ていることができずに、和は彼に声をかけた。
 自分にどこまでできるかはわからない。それでも、すべてを終わらせるために、精一杯調べてみるから、と。
 中途半端なところで止められたこぶしは、迷ううちにじりじりと下がっていく。狂言とはいえ失踪中の身だ。今日はそれほど遅い時間でもないから、共用スペースに長居はできない。
「………執事さんに確認するのは、せめてあそこをちゃんと調べてからでも、遅くない……よな」
 なかば自分を納得させるために、和はつぶやいた。
 そっときびすを返す。今は主のいない日織の部屋へと、和は歩きだした。

 静かに、ディートリヒの部屋の扉が開く。思考に沈むその背中を見送って、口の端をつり上げ嗤った男に、けれど和が気づくことはなかった。




「ディーター、……ディーター?」
 肩に載せられた重みに、ディートリヒはまばたきをした。
 オフホワイトの壁紙を張られた室内は、壁に取りつけられたいくつもの灯りで皓々と照らしだされている。その明るさが妙にひとみを刺激した。
 気づけば、アルノルトが怪訝そうな顔でこちらをのぞきこんでいた。その手入れの行き届いた指が、軽く己の肩にかかっている。
「……我が君」
 内心あわてて、ディートリヒは背筋を伸ばした。
「大丈夫かい? ぼうっとしてたみたいだね。さすがに、疲れてるんだろう」
「は、そのようなことは……」
 気遣わしげな主君に答えを返しながら、ディートリヒはまばたきをくり返した。
 ここは――我が君の居室だ。食欲がないとの仰せであったから、お部屋で召しあがっていただけるよう、台所で軽食の支度を済ませて……その後、こちらへお持ちしたのだったか? ご夕食の給仕は?
 ちらりと、卓に置かれた時計に視線を走らせた。すでに日付が変わっている。
「ディーター?」
「伯爵、お食事は……」
 思わず問えば、アルノルトがきょとんとした顔で見つめ返してきた。
「なんだい、やぶからぼうに。ちゃんと食べたよ。千絵子が持ってきてくれたから」
「そう、でしたか……」
 とりあえず、きちんと夕食は済まされていたという事実に安堵する。
「それより、さっきの話なんだけど…ディーター、やっぱりだめかな?」
「……はっ?」
 主の問いに、ありうべからざる返答が己のくちびるから漏れた。
 先ほどまで、伯爵と何を話していたのだったか。思い出そうとして、何も出てこない自分自身にディートリヒは愕然とする。いかに疲労で気を散じていたとしても、伯爵の言葉を聞き流すとは。
「だから、和だよ。日織も探しているんだろうけど…君も行ってきてくれないかな。僕なら一人でも大丈夫だから」
「一柳様……?」
 時計を見ながら、アルノルトがつぶやいた。
「いくらなんでも遅すぎる。…夕食を取りにいったん戻ってくるって、そう言ってたのに」
「夕方から、いまだお戻りではないのですか」
 思わず息を飲み、訊ねたディートリヒに向けられたのは、主の困惑したまなざしだった。一瞬の後、その面にややぎこちない微笑がのぼる。
「……やっぱり疲れてるんだね、ディーター。大丈夫だよ。もしかしたら、恐がりな和のことだから、ネズミか何かに驚いてどこかで気絶しちゃったとか……それとも、隠し通路で迷子になってるのかもしれない」
 冗談めかした明るい声で、アルノルトが言った。
「伯爵……」
「きっと、お腹と背中がくっつくくらい空腹になって戻ってくるよ。そうだ、すぐ食事ができるように、サンドイッチかなにか……」
 がたんと奥のクローゼットから音がした。
「……和!?」
 アルノルトが、そちらへ視線を向けた。
 返答はない。わずかな警戒とともに、ディートリヒはクローゼットと主の間に移動した。
 重たげな足音が近づいてくる。
 どうひいき目にとってもあの細身の青年のものとは思えないそれに、アルノルトがわずかに嘆息した。
「日織? 戻ったのかい」
 軽くきしむような音とともに、ゆっくりと、クローゼットの扉が開いた。
「日織様……」
 主が呼んだ通りの人影に、ディートリヒは思わず眉根を寄せた。
 部屋に一歩踏みいったところで、日織は立ちどまる。ひどい顔色をしていた。この不可解な騒ぎのなかでさえ、どこか飄然としたそぶりを残していた彼の、これほど憔悴した様子は初めて見る。
「……見つからなかったんだね」
 沈んだ声で、アルノルトがささやいた。誰が、とは問うまでもない。
 後ろ手に、日織がクローゼットの扉を押しやった。
 きしんだ白い扉、そこに残された色に、ディートリヒはぎくりとした。
「日織様」
 心臓がしめあげられる。乾いていくのどを自覚しながら、声を絞りだす。
「………手に、お怪我を?」
 恐ろしい直感は、口にできなかった。問いかけは、せめてそうであってほしい、という願いにすり替わる。
 彼のつかんだところが、赤黒く染みになっていた。
 主も気づいたのだろう。背後で、その気配がこわばる。
 日織が、わずかにくちびるを動かした。
「見つかりましたよ」
 低くかすれた声だった。
「……和さん。ああ、そうだ、三笠さんも」
 暗い双眸に、まるで底のない穴をのぞきこんでいるような錯覚を覚える。そのまま、彼はこちらに背を向けた。
「来てくれますか」
 それだけ言って、日織は歩きだした。
 そうして、着物姿の背がクローゼットの奥に消えても、ディートリヒは動けなかった。
「まさか、和、………尉之」
 呆然とつぶやいて、ふらりと先に歩きはじめたアルノルトの姿を見た瞬間、硬直が解ける。
「いけません」
 伸ばした手を、カーディガンに包まれた肩にかける。
 途方にくれた顔でふり返ったアルノルトへと、ディートリヒはうなずいてみせた。安心させようと浮かべた笑みが、形になっていたかは己でもわからない。
「私が、確認してまいります。……どうか、伯爵はここでお待ち下さい」
 そっと、主の体をソファへと座らせる。
 きびすを返そうとしたところで、ひっぱられる感覚にディートリヒは驚いて足を止めた。見れば、のばされたアルノルトの指が、自分の袖口にかかっている。
「伯爵……」
 軽くにぎりしめるしぐさは、彼がごく幼いころに見せたそれに似ていて、今度こそ己の口もとにほほえみが浮かぶのがわかった。
 その手を取って、アルノルトの前に膝をつく。顔をのぞきこめば、迷い子のようにゆれるまなざしが見つめ返してきた。
 少しばかり迷ってから、ディートリヒはアルノルトの頭に空いた方の手を載せた。ととのえられた髪筋にそって、そっと指をくぐらせる。
「すぐに戻ってまいります。我が君」
「……うん、ディーター。……気をつけて」
 かすかにアルノルトがほほえんだ。ディートリヒの手の中から、その指が引かれる。
「仰せの通りに」
 ゆっくりと、ディートリヒは立ち上がった。
 クローゼットの奥から、小部屋へ降りる。ひやりと冷たく湿った空気がほおに触れた。隠し通路へとつながる扉を開いたところで、その先に立っていた日織がふり返る。
「……こっちです」
 抑揚のない声音でそうとだけ言って、日織は歩きだした。
 一方通行の部屋を抜け、階段を上っていく。暗い通路に、互いの足音だけが反響する。
 迷路のような通路を歩きながら、ふいに眩暈を覚えて、ディートリヒは足を止めた。換気が悪いせいだろうか。息苦しさに耐えきれず、わずかに襟もとをくつろげる。
 顔を上げれば、黒い羽織の背が、角の向こうへ消えようとしていた。早足で追いかける。
 遅れた自分に気づいたか、先を行く足音が止まる。かすかに衣擦れの音がした。
「申し訳ございません、日織さ……」
 角を曲がる。声の最後が、かすれてのどの奥で消えた。
 石の床に膝をついて、わずかに日織が顔を上げた。
 そのかたわらには、背中を壁にあずけ、崩した正座のような姿勢でうなだれる人影がある。
 すうっと、頭から血が下がっていく感覚。首筋が冷えた。手のひらに、冷たい汗がにじむ。
「………和さんは、本当に怖がりでしたから」
 壁にかかった灯りを向こう側から受けて、視線を落とした日織の横顔は、なかば闇に沈んでいる。
「明るいとこで、休ませてあげたいんです。現場を荒らすとは何事だって怒られちまうかもしれませんけど、三笠さんも、せめて縄を解いて、楽な姿勢に…。あんな格好のままじゃあ、あんまりだ」
 ちらりと、日織が通路の角、見えない先へと視線を投げた。感情の抜け落ちた声が続ける。
「ああ、写真は撮ってありますんで。ただ、一人で勝手に動かしちまうのはどうかと思ったもんですから…立ち会ってもらったほうがいいんじゃねえかってんで、来てもらったってえわけで」
 ディートリヒは、ゆっくりと人影の前に片膝をついた。
 何も考えることなく、さきほど主にしたように、その面をのぞきこむ。
「……一柳様」
 眼鏡がなかった。まぶたはかるく閉じられ、少しだけ眉根が寄っている。わずかに口が開いているのが、まるでうたたねでもしているようだった。口もとに寄せた指に、あたたかな吐息はかからない。
「たぶん、打ち所が悪かったんでしょうね。……頭です」
 外傷らしき外傷が見えない。日織のことばでようやくそのことに気づく。
「背後から殴られて、倒れたところをもう一発、かな。そのあと、意識がねえのをわざわざこうやって座らせたみてえです。……苦しんだ様子がねえってのが、救いですかね」
 ぽつり、ぽつりと、日織はつぶやく。ディートリヒの横から伸びた彼の手が、腹の上で祈るように組み合わされた和の手にそっと載せられた。
「……妙な話ですがね、どうも、とどめをさしたって感じがねえんですよ。この人が死ぬか死なねえか、やった奴にもはっきりとはわからなかったと思うんですが」
 なかば麻痺していた思考が、日織のことばの最後でわずかに反応する。
「それでは……」
 声がしわがれるのが、自分でもわかった。知りたくないと叫ぶ内心を押さえて、ことばにする。
「……我々が、もっと早くに探しに来ていれば、……助かったかもしれないと?」
「三笠さんのほうは……」
 日織が何事か言いかけて、不意にだまりこんだ。
 続く沈黙に、ディートリヒはのろのろと視線を上げた。
 日織は、呆然としているような、混乱しているような目でこちらを見ていた。
「……日織様?」
「ティーロさん、あんた……」
 しばらく言葉を探すように、日織は口もとを動かし、それから固く目を閉じた。
「いえ、……たぶん、この人についちゃあ、結果は同じだったでしょう。ここじゃ、頭んなかの出血はどうしようもないですから」
「そう、ですか……」
 ぼんやりと相づちを打つ。
 最後に話をしたのは、うたた寝をしていたアルノルトのかたわらだった。彼はディートリヒの主を気づかい、ひどく心配そうな顔をしていた。
 思うよりずっと、自分は彼に頼っていたのだろう。
 何故こんな異常な事態が続いているのか、などと。狂言を始めた自分たちが、よりにもよって巻きこみ欺いていた彼の前で言っていいはずもない。けれど、気づけば心中の不安を口にしてしまっていた自分に、彼は辛そうな顔をして、まるで彼自身にこそ非があるかのように言ったのだ。
『……まだ… 調べ切れていない事があるから、です』
 ディートリヒを励まそうとしたのだろう。その幼い顔立ちに、精一杯のほほえみを浮かべて彼は続けた。
『……僕に、どこまでできるかはわかりませんけど……どうにか終わらせられるように、調べてみます』
 誰を責める事もなく、ただ己の責のみを口にしてほほえむ青年が、その時、己がだれより信頼する主に重なって見えた。
 覚悟して日織についてきたはずなのに、どこかでまだ彼の死を信じられないでいたのは、彼ならきっとすべてを終わらせてくれると、そう思っていたからかもしれない。
 ……無責任だったのは、自分だ。
 もう目覚めることのない和の白い顔を見つめながら、ディートリヒはゆるゆると息を吐きだした。
 痛む目の奥とこめかみをこらえて、立ちあがる。
 通路の奥へと向かう背後で、日織の動く気配があった。ほぼ同時に、ぱさりと何かが落ちる音がして、ディートリヒはふり返った。和の体を抱えあげた日織が、わずかに髪の乱れた小さな頭を己の胸にもたせかけた格好で、床に視線をやっている。
「何か、落ちたようですが」
 かがんで手を伸ばす。その瞬間、肩に鈍痛が走った。思わず動きを止めると、日織が怪訝そうな声でディートリヒの名を呼んだ。
「ティーロさん……肩、どうかしたんですかい」
「ああ、いえ、どこかにひどくぶつけたようでして、しばらく前から痛むんです。大したことはございませんので」
 ぼんやりと答えて、ディートリヒは落ちた物を拾いあげた。和のものだろう、シンプルな黒革の手帳だ。
 はさまった埃を払おうとページを繰ると、途中で引っかかる。どうやら数ページが破りとられているようで、乱雑な破れ目が開いた。
 思わず眉を寄せる。見ていた日織も険しい顔をした。
「……どうぞ、お持ちになって下さい」
 ディートリヒの差しだしたそれを、日織は片手を空けて受け取り、着物の袂にしまい込んだ。
「一柳様を、お願い致します。……三笠様は私が」
「すいませんね」
「いえ……」
 どこかうわすべりする会話を交わしながら、ディートリヒは再び歩きだした。



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