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 伯爵の私室へつづく扉の前で、大きくひとつ息を吸いこむ。
 金のノブに手をかけ、ゆっくりと押し開けると、長椅子に身を沈めるアルノルトと、その隣でなだめるようになにか話しかけているクレアの姿が目に入った。
「ああ……戻ったのね、ティーロ」
 こちらに気づいてふり返ったクレアが、早足で歩みよってくる。一歩の距離を置いて立ちどまった彼女は、アルノルトを気にしてだろう、ひそめた声でささやいた。
「どうだったの」
 薄い眼鏡の奥で、クレアの淡い茶色のひとみが揺れている。ディートリヒが首を振ると、その双眸は痛みをこらえるように固く閉じられた。
「お二人とも、隠し通路の奥だった」
「……そう」
 クレアのくちびるから、嗚咽めいた細いうめきがもれる。どうしてこんなことに、とこれは彼女の母国語で、かすれた声がつぶやきかけて、語尾を飲みこむようにそのくちびるが引き結ばれた。
 思いを振り切るようにゆるく首を振ったクレアが、別の質問を口にする。
「……そういえば姿が見えないけど、日織は? あなたと一緒だったんじゃないの」
「ああ、一柳様を……どうしてもお部屋にお戻ししたいとのことで、途中で別れた」
「そう……」
 ためらうような間があって、そっとクレアが問うた。
「……尉之は?」
「三笠様のご遺体は、そのまま現場に……大丈夫か、クラリッサ」
 わずかによろめいたクレアの肩に、とっさに手を伸ばしかけてディートリヒは躊躇した。
 三笠の血と彼に降りかかった酸とが染みこんだ手袋はすでに外してあったが、指先にはぴりぴりとした違和感が残っていた。触れれば、薬剤が移ってしまうかも知れない。
 ためらう間に、クレアはゆっくりと首を左右に振り、大きく息を吐いた。
「……わたしは平気よ。それよりティーロ、あなた、まず着がえてきたほうがいいわ」
「ああ、いや……」
 クレアの背後、うなだれ悄然とした様子で椅子に沈む主君を、とっさにディートリヒは見やった。
「アルが心配なのはわかるけど、あなたも相当ひどい顔してるわよ。お風呂に入れとまでは言わないから、顔と手を洗って、もうすこしましな格好で戻ってらっしゃい。アルには、わたしがついててあげるから」
 言って、クレアはかすかにほほえんだ。
「……わかった。ではご報告だけ済ませて、いったん私は自室へ戻らせてもらう。すまないな、クラリッサ」
「いいえ。……何もしないで一人でうじうじ考えこんでいたら、自己嫌悪でもう立ち上がれなくなってしまいそうだから」
 最後は吐息混じりに言って、クレアは泣きだしそうな笑みにその顔をゆがめた。



 まぶしいほどの白を基調とした伯爵の居室を辞し、自室の扉を開ければ、灯りを落とした室内に、まるで真昼から夜へと時を飛びこえたような錯覚を覚える。
 入り口傍のスタンドひとつだけをともし、薄闇のなか、ディートリヒはスーツの襟元に手をかけた。腕を引き抜き、脱いだ上着を椅子の背にかけ、カフスボタンを外す。
 手の中のそれに目を落とし、ディートリヒは嘆息した。作業にかかる前に、外しておくべきだったか。
 三笠の縄をほどく時に、薬品がついてしまったのだろう。スターリングシルバーのカフスには、わずかな黒ずみが見て取れた。伯爵から贈られた大切な品だ。深く息を吐きだして、ディートリヒは上着の内ポケットから、貴重品を管理している抽斗の鍵を取りだした。カフスを納める箱とともに、手入れのためのクリームが入れてあったはずだ。
 かたん、と小さな音を立てて、抽斗が開く。
 そこに見慣れないものを見つけて、ディートリヒは眉を寄せた。
 ビロードの小箱が並んだその上に、罫線のついた小さな紙切れが数枚乗せられている。
 こんなものを入れた覚えはないのだが。怪訝に思いながら、そのうちの一枚をディートリヒは手に取った。
「……これは」
 思わず、声が漏れた。
 紙面には、いかにも走り書きしたような少し崩れた日本語がつづられている。
 目を通せば、北礼拝堂や三笠の居室横、礼拝堂奥の物置など、城内の隠し部屋にあたる各所を示す名称が並び、その名の横にはさらに×印がついていた。一番下、地下2階中央迷路という文字の横にだけは、その印がない。
 先ほど隠し通路で拾った和の手帳が、ディートリヒの脳裏をよぎった。ちぎられた紙片だとすれば、これくらいの大きさになる。
 しかし、そうだとして、何故そんなものがここに……。困惑しながら、ディートリヒは残りの紙片を拾い上げた。
 一枚ずつめくっていく。そこに書かれている内容からすると、やはり、和の捜査にかかる覚え書きと見て間違いなさそうだった。吊り橋と同じ繊維のからんだ彫刻刀。三日目の朝にはアトリエの机の抽斗から消えていたそれが、その日の深夜時点では机上に戻っていたこと。
 これについては、ディートリヒにも思いあたるところがあった。三日目の朝、玄関ホールに落ちていたのを見つけて、アトリエに戻した覚えがある。ならば、犯人が橋を落としたのは、ジョージが城を出て行った二日目夜から、自分が彫刻刀を見つけたその翌朝にかけての間だということだ。
 ……もしや、一柳様には、犯人の目星がついていたのではないか。緊張とともに、次の一枚をめくる。
 玄関ホールの鍵、という文字がまず目に入る。和のものだろう細い筆跡は、こう続けていた。
 二日目夜の施錠後、日織が執事さんへ返却。
 何気なく読み進めかけて、そして、ディートリヒはゆっくりまばたきをした。
「…………鍵、は」
 今も自分の管理下にある。
 万が一にも余人の手に渡ることのないよう、厳重に保管してきたのだ。日織が失踪する時と、ジョージが城を去る夜、その一時の間だけ日織に貸し出しはしたが、それを除けばずっと手もとにあった。常ならば、清掃のためにメイドたちに渡すこともあるが、『鍵が壊れている』はずの状況下で彼女らがそんなことを言いだすはずもない。
 うろたえて、ディートリヒは片手を上げた。こめかみに手を当て、思考をめぐらせる。
 三日目の朝までに、橋は落ちている。それ以前に自分以外で鍵を使えた人物は日織だけだ。
 ジョージを見送った後、橋を落としたということか? 彼に鍵を渡してから自分に返してくるまでの間に? そもそも、ジョージは本当に城から出ているのか?
 混乱した頭にいくつもの疑問が浮かんでは消え、最後に、和の亡骸のかたわらにひざまずいた日織の横顔がよみがえる。
 ぞっとするほど暗いひとみ。
 ……まさか、本当に、彼が?
「馬鹿な……」
 動揺を抑えきれず、ディートリヒはうめいた。力のこもった手の中で、くしゃりと乾いた音がする。
 我に返って、にぎったこぶしを開く。しわの寄った紙片を伸ばそうとして、手が止まった。
 そうだ、……そもそも、何故、一柳様の手帳の切れ端がこんなところに?

『……おいおい、わからねえのかよ?』
 笑みを含んだ男の声が、すぐ後ろから聞こえて、ディートリヒは息を飲んだ。
『名探偵の大事な手帳の切れっぱしがここにある理由……信じたくないってのはわかるがな。往生際が悪いぜ、ディートリヒ』
「誰だッ!」
 勢いよくふり返る。
 そこには、誰もいなかった。
 動揺のままに、自室のうすぼんやりとした暗闇へと視線を走らせる。
『あーあ、最後までお前一人がかやの外じゃあ気の毒だろうと思って、わざわざ置いといてやったってのによ』
 小馬鹿にした口調で、姿のない声はささやく。
 くらりと、眩暈がした。悪意に満ちた嘲笑がこだまする。
『まあ、いいさ……ここから先はおれにまかせとけよ。……お休み、ディートリヒ』
 男の笑い声に、今にも消えそうな幼い声が重なる。
『ごめん……ごめんね、ディーター……ごめんなさい……ッ』
 悲しげなすすり泣きを最後に、ディートリヒの意識は消え去った。



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