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 何故、とつぶやいた声は、かすれて音にならなかった。
 目覚めた瞬間、駆けめぐった思考に比して、体は砂の詰まった布袋のように重かった。起き上がろうとして、腕を上げることすら叶わない。
 石造りの床は、そこに横倒しになった体の、流れ出した血液の温度を貪欲に吸い取っていく。
 ディートリヒは、ゆっくりと眼球を動かし、かすむ視界に目を走らせた。
 腹に、大きく赤黒い穴が開いていた。浅く息を吸うたび、思考が灼きつくほどの激痛が走る。
 気を抜けばふたたび遠ざかりそうな意識をかきあつめて、ディートリヒは、目の前にある鉄格子の向こうを見つめた。
 いったい……誰が、私を。
 部屋に、自分以外の人影はない。ただ、格子の隙間から手を伸ばせたとしても届かない距離に、牢の鍵と、血に濡れたレイピアが放り出されている。
 己の腹を割いた凶器を、犯人は無造作に手に提げ、牢を出たのだろう。切っ先からしたたり落ちたらしきどす黒い血痕が、牢の入口から剣の落ちている場所まで、犯人のゆったりとした足取りをなぞるように、丸く、ぽつり、ぽつりと落ちている。
 正面から刺された傷だ。ならば自分は、真向かいで、相手の顔を見て………?
 鼓動とともにくり返す熱い痛みに、状況を把握しようとする理性が、思考の輪郭が崩れていく。

 ……私は、死ぬのだろうか。
 いまもなお、床の上に、冗談のようにあざやかな色合いで広がっていく赤。ぼんやりと、テーブルクロスに染みたワインを連想し、生臭い血のにおいで現実へ引き戻される。
 伯爵、とディートリヒは、吐息混じりにつぶやいた。
 己の命よりもなお気がかりなのは、殺人者の潜む城に残る主の身だった。
 ジョージがいない今、私までもがおそばから消えて、誰が伯爵の身をお守りできるというのか……
 城に残る面々を脳裏に思い浮かべ、ディートリヒは目を見開いた。
 その中に、いるのだ。いかに信じがたいことであろうとも、自分たちをこの城に閉じ込め、和と三笠を殺めた人物が。
 そしてそれが、日織ではないかと、……自分はそう考えていたのではなかったか。
 拡散する意識を引き戻そうと、ディートリヒは歯を食いしばった。噛み合わせた歯の根はろくに合わず、寒さと吐き気にかちかちと音を立てる。
 クラリッサ。ネリー。チエコ。誰か、早く気づいてくれ。
 どくん、どくんと、心臓がひとつ打つたびに、傷口から血が流れ出ていく。鼓動の音が、こめかみにひびく。ただひとみを開いている、それだけのことがどうしようもなく辛い。
 まだ、だめだ。
 奈落のふちに爪をかける思いで、ディートリヒはあがいた。それでも、こらえるそばから、剥がれ落ちるように意識があいまいになっていく。
 我が君を……もう二度と、私は、見捨てて、逃げだす、ような………
 ギィ、とアトリエと廊下をつなぐ扉の開く音がした。続いて、静かに人の動く気配。
 ディートリヒは目を見開いた。必死に、アトリエへとつながる扉を見つめる。
 誰でもいい。来てくれ、ここに……
 かすかにきしむ音を立てて、扉が開く。
 そこに立つ者を見つめて、ディートリヒは、祈りを聞き届けた相手が神ではなかったことを知った。
 日織様、と。かすかに、くちびるは動いたろうか。
 絶望にそまった思いで見あげる。視線が合った。日織のひとみが、大きく見開かれる。
「ティーロさん……?」
 呆然とした声。あわただしく駆けこんでくる足音。
「……なんで、あんたが!」
 意志の力だけで保っていた意識が遠のきかけ、しかし、ディートリヒは必死に己を叱咤した。
 彼が、このような茶番を演じる意図は何だ。彼の演技を見せるべき観客が、これからやってくるということではないのか。
 それとも何もかもが私の思い違いで、もしかすると、本当に彼ではなくて……
 日織は牢の扉に手を掛け、施錠を呪うことばを二言三言吐いた。鍵を求めてか、せわしなく床をさまようその視線が、ふと、止まる。
 日織が片膝をついた。格子のこちらがわ、一点を凝視するそのまなざしを追って、ディートリヒも目を向ける。
 何故いままで気づかなかったのだろう。自分の手もとに、小さな羊皮紙が落ちている。
 ディートリヒは瞠目した。頭のなかが真っ白になる。何だ、これは。

「……『お前が、犯人だ』」

 ――――違う!
 紙面につづられた文字をなぞった日織のことばに、反射的に浮かんだ否定は、当然のものであるはずなのに、不自然なほどに強かった。
 私は三笠様を殺してなどいない。一柳様を殺してなどいない。そんな記憶は……

『……ああ、そうだな、やったのはお前じゃない』
 ひそやかに、どこかで聞いたような声が、笑ってそれを肯定する。かぶさるように、幼い子供がすすり泣く。
『そう、悪いのはぜんぶ、ぼくなんだ……ごめんねディーター、アル、みかささんなごむ……』
 嘲笑。嗚咽。耳鳴りのように重なる複数の声。
 甘くやわらかな女のそれが、調子の外れた子守歌のようにひときわ高くひびいた。
『ええ……そうよ、もう大丈夫、今度こそ悪魔は封じたから……ぼうや……わたしのぼうや』

 自分のものではない記憶が押し寄せる。
 ひらめくように、見知らぬ情景がよぎる。

 暗い通路。たよりなく揺れる手燭の炎。
 濃厚な血と酸のにおい。首を垂れ、懺悔にひざまずく男の顔は見えない。
 その前にうずくまり、嗚咽をもらしている小柄な後ろ姿。
 悪魔でも、涙を流すのだろうか? ぼんやりと考えて、首を振る。
 封じなければ。わたしの罪をつぐなうために……
 手にした、銀の燭台をふりかざす。
 半身をひねり、ふり返った悪魔のひとみが、大きく見開かれる。
 渾身の力を込めて、その頭部を―――

 ―――やめろ!

 ぐしゃりと、鈍い感触。
 あおむけに倒れこんだ体に馬乗りになる。わずかな抵抗。
 ふたたび腕を振りおろす。
 腰の下で、ほそい体がびくんと跳ねた。動かなくなった相手に、身をかがめ、そっとほおを寄せる。うすく開かれたくちびるに、己の肌が触れるほどに。
 ごくかすかに、それでもたしかに吐息が触れた。
 そっと抱き起こし、壁によりかからせる。ずるずると崩れ、膝をついた体が、祈るようにうなだれる。腕を取り、腹の上でその指をやさしく組み合わせた。
 こころの底から、安堵がこみ上げる。
 これでいい。あとは、まだ息のあるうちに立ち去れば、悪魔封じは完成する……。
 立ちあがろうとした瞬間、かしゃんと軽い音がした。
 衝撃でゆるんでいたのだろう、華奢なフレームの眼鏡が床に落ちていた。
 朱い炎にきらめくガラスの表面に、人影が暗く映りこむ。

 女のような装いで、ぼんやりとこちらを見つめ返す、気の触れた男。
 それは、他の誰でもない、私自身の姿をしていた。

 伯爵によく似たあなたを、慕わしく思っていた。
 不安を隠して、誰かのためにほほえむ。そんなあなたを見るたびに、かすかに胸が痛んだ。
 許されるならば、あなたの力になりたいと思っていた。
 憂いの消えた、あなたのほんとうの笑顔を、見てみたいと思っていた。

 それなのに、どうして、私が、あなたを―――そんな、嘘だ。



 がしゃん、と金属の鳴る音がして、意識が引き戻された。
 牢の扉が開く。膝をついた日織が、ディートリヒの傷をあらため、眉を寄せた。
「ティーロさん、今、クレア先生を呼んできます。もうしばらくだけ、辛抱して……」
 日織が腰を上げかける。全身の力をふりしぼって持ちあげた腕で、その袖をつかんだ。
「…………おり、さま」
 息の合間から、声をしぼりだす。いま、告げなければ、もう。
「ゆる………て、ください………私、は」
 苦しい。傷よりもなお、叶うことならば声を上げて泣きたかった。
 肺の奥から、血の塊がこみ上げた。むせ返る力もなくのどが詰まる。
 腕を伸ばし、手探りで汚れた羊皮紙をなぞった。その手を持ちあげ、自分の胸に置いた。
 すがるような思いで、日織を見つめる。
 日織が、目を見開いた。
 歪んだそのひとみに、確かな理解の色を見て、ディートリヒは体の力を抜いた。

 視界が、すうっと暗くなる。
 遠く、女の哀しげな声が聞こえた。

『ゆるしてちょうだい、わたしのぼうや――――』



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