手を伸ばせばひとつかみにできそうな光の束の中で、ただよう埃がちらちらと光る。そのゆっくりとした動きを、日織はぼんやりと目で追っていた。 がちゃん、と響いた異音にはっとして意識を戻す。 ふり返って、日織は身構えかけていた体からゆっくりと力を抜いた。 連れの少女が抱える買い物籠の中に、うっすらと埃をかぶったガラス瓶が転がっている。見たところ、中身はオリーブオイルだろうか。 「あと、何が要るんですかい?」 メモを片手にきょろきょろしている千絵子に日織は声を掛けた。 「ええっと、そうですねえ、あとは……あっ」 商品棚の間の通路を小走りに走った彼女は、壁際の棚からさらに香辛料の小瓶を一つ取って、その上から放りこんだ。つづいて、床に置かれた木箱から乾いた土がうっすらこびりついたじゃがいもを三つ四つつかみとり、これも無造作に籠の中へ。 食料品が並べられた狭い店内は、うす暗くひんやりとしている。その沈殿した空気をかき乱して、千絵子の軽い足音が響いた。 「おじさーん、あとこれもください。丸ごとじゃなくて、半分くらいあればいいですから!」 レジカウンターの脇、ガラスケースの中のチーズの塊を指さし堂々と日本語で注文をする千絵子に、ドイツ語しか解さないだろう壮年の男性店主が思案げな顔でケースを開けた。 「このあたりですぱっとお願いします」 千絵子が、取り出されたチーズの表面に線を引くように指を動かした。ああ、と合点した男がよく使い込まれた様子のカッティングボードとナイフを取り出した。切り分けられたチーズを受け取り、千絵子が会計を済ませる。チン、と旧式のレジスターが鳴った。 「よし、お買い物完了です! つきあってもらっちゃってありがとうございました、日織さん」 ガッツポーズをしてみせた後、足音高くこちらに駆けよってきた彼女に、まばらな客たちからの視線が集まる。 「ああ、いえ……」 ここにいるのが彼女の上司だったら、店で走るな大声を出すなと叱責が飛んでいたところだろうか。 想像しかけて、けれど静かに立腹するあの青年の表情をうまく脳裏に描けずに、日織は目元をゆがめた。 「それでは、速やかに撤退ですよ!」 茶色の大きな紙袋を腕いっぱいに抱えて、店の出口へと向かって歩きだしていた千絵子の後ろをあわてて追いかける。 「ああ、千絵子さん……荷物くらい、俺が持ちますって」 「いえいえーそんな、運転手を頼んじゃってるのに、そこまでお願いできませんよう」 大荷物をむりやり片手に持ちかえ、あぶなっかしく店のドアノブに手を伸ばす千絵子に後ろから腕を伸ばす。 「開けます、俺が開けますから」 扉を開いた瞬間、至近距離でフラッシュのまぶしい光がひらめいた。 「うひゃあっ!?」 『お嬢さん、一言で結構です、事件について何か!』 光の後ろから、男の声が飛んできた。よろめいた千絵子の頭が自分の胸にぶつかる。その体を、目がくらんだままとっさに空いたほうの手で支えた。 焼きついた視覚を働かせようと、一度固くつぶって、目を開く。 目の前の黒い影が、わずかな間を置いて若い男の態をなした。ラフな服装にやせ気味の体、所属を示す徽章は見あたらない。フリーのカメラマンだろう、出口をふさぐように立ちはだかる相手を押しのけ、路上に停めてある車へと足早に日織は歩きだした。 まったくひるんだ様子のない男が、横でふたたびカメラをかまえる。 耳障りなシャッター音とフラッシュの閃光。石畳を踏んでついてくる足音。 『どんなささいなことでもいいんです。謝礼ははずみますよ! 孤立した城に、三つの死体……犯人は、あの時閉じ込められていた人間の中に必ずいるわけですからね』 背中に当たった男の言葉に、思わず千絵子をかばう腕へ力がこもった。相手のまくしたてるようなドイツ語が、千絵子に通じたはずはない。それでも、無神経なことばをぶつけられているのだということは察したのだろう。彼女は心配げにこちらを見あげてから、その腕に抱えた紙袋ごと身をひねった。 焦げ茶色のひとみが、けわしく男をにらみつける。 「あたしたちのことはもう、ほっといてください!」 「……千絵子さん」 「だって、みんなっ……みんな、すごく、悲しんでるんですから……ッ!」 途中から急にかすれた声で、それでも言いつのろうとする彼女の肩へ載せた手に、日織はぐっと力を込めた。 「行きましょう。……何言ったって、どんな反応したって、ネタをくれてやるだけなんですから」 千絵子の体を車に押しこみ、扉の間に差しこまれる男の腕を払って運転席に乗り込む。動き出した車のバックミラーでうかがえば、追いかけてはこない様子の相手にほっとして、日織は更にアクセルを踏み込んだ。 落ちついたのだろう、後部座席からしょんぼりとした声がした。 「ごめんなさい、日織さん……」 運転席に頭をもたせかけたらしく、後ろから座席の背が押される気配がある。 「あたしがお買い物につきあわせたせいで、嫌な目に遭わせちゃって……」 「いえいえ、気にしないでくだせえ。それよか、楽しみにしてますよ、千絵子さんの手料理。ネリーさんところの郷土料理でしたっけ?」 すん、と一度鼻をすする音がして、後部座席から元気な声が上がる。 「そうなんですよー。最近お屋敷で上げ膳据え膳してもらっちゃってて、メイドとしてはいかがなものかって思ってたんですよね。このまま中居の腕をさびつかせるわけにもいきませんし、この際ネリちゃんにも、中居の愛情料理をたっぷり味合わせてやるんです!」 ずっとふさぎこんでいるネリーを気づかってのことだろう。千絵子の声には力がこもっていた。ハンドルを切りながら、日織は相づちを打った。 「そりゃあいいですね。ネリーさん、きっと喜びますよ」 言いながら、気休めだなと思いもする。 メイドの二人は、事件から一ヶ月が経った今でも仕事に復帰できずに本邸に留め置かれている。それは、騒ぎが落ちつくまで彼女らを安易に他の者たちと接触させたくないというルロイ本家の意向でもあったが、それでも持ち前の勢いと怪しげなドイツ語を駆使してなんやかんやと邸内での雑用をもぎ取っている千絵子と違い、ネリーがそうしているのには精神的な療養という意味合いのほうが大きい。 日織の内心が聞こえたかのように、ぽつりと千絵子がつぶやいた。 「………なんにもネリちゃんのせいじゃないよって、中居が何度言っても、ダメなんです」 狂言のきっかけとなった脅迫の存在自体については、アルノルトも隠したままにしておくことができなかった。誰の仕業であったかは公には明らかにされぬまま、ただその脅迫文が今回城に集まっていた面々と縁のあるものであったことから、事件と何らかの関連が、とはマスコミでもネタの一つとして取りあげられている。また、爵位を継いだ存在への批判とも取れるその内容は、イザークの周囲にいらぬ詮索を呼び寄せてもいた。イザーク自身は、そのせいで実家にこもらざるを得ず、思うようにネリーの傍についていてやれないことにこそ苛立っている様子ではあったが……この状況で、彼女に思い詰めるなというほうが無理だろう、と思う。 「だから! 口での説得じゃなくて、体のほうから攻めてみることにしました。おいしいもの食べれば、ちょっとは元気がでるってものですよ!」 「ええ、そうですね……」 そうなればいいと、心から思いながら、日織はうなずいた。 |