背中の下に、マットレスの感触がある。気だるさと鈍痛が、心身の不調を訴えた。 目に差しこむ白い陽光に、思わずつぶやく。 「まぶしい……」 ふっと目の前が暗くなった。 光がさえぎられたのだと気づいて、リピピはぼうっとまばたきをした。誰かが自分の上におおいかぶさるようにして、こちらをのぞきこんでいた。 背中に光を受け、その輪郭が銀のかがやきを帯びる。 ああ、とうめいた。つんと鼻の奥が痛くなる。 「だいじょうぶ……あなたの声、聞こえましたから」 重い体を叱咤して、リピピは腕を上げた。手を伸ばす。 「帰りましょう、いっしょに……」 その手をにぎりかえされる。痛みを感じるほどの力に、ぼんやりしていた頭が動きだす。 リピピは自分をつかんでいる手を見つめた。健康的な、日焼けした腕だ。 「…………?」 腕からたどって視線を上げていけば、見知った顔が見おろしていた。 「おい。……大丈夫か」 低く問いかけてくる、聞きなれたその声色にリピピは我に返った。 「え、……ファルさん?」 つづけて何かを言おうとしていたローファルが、飛びこんできた影に押しのけられ視界から消えた。 「ちょっ、おまえな…」 「リピピ!」 あっけにとられたリピピを、寝台に飛び乗る勢いでのぞきこんできたのは、顔を真っ赤にした妹だった。 「タ……タチナナ……!」 ほんとうに久しぶりに見る、妹の元気な姿にひとみがうるむ。 「このばか! 何考えてるのよ! ああもう信じられない!」 いきなり叱りとばされて、こみ上げた涙が引っこんだ。怒りゆえだったらしい赤い顔で、妹は言いつのる。 「あんたね、常識的に考えて、赤の他人にハイどうぞって身体明けわたすとかありえないでしょ!? ほんっともうもう、もう…!」 「え、でも、あの、その……」 「はいはいはい、とりあえずそのへんにしといちゃどうだい、お嬢さん」 割りこんだフェッロが、ひょいと後ろからタチナナの体を持ちあげた。 「ちょっと、何するのよッ!?」 「まあまあ、落ちついて」 かるい口調で言いながら、すとんと床に降ろす。そのまま、怒りのあまりことばもなく身を震わせるタチナナの頭をぽんぽんと叩いている男に感謝すべきか、それとも止めてくれるように頼むべきか、迷いながらリピピは口を開いた。 「あの、フェッロさん……」 「いやあ、まったく、俺としたことが読み誤ってたみたいで、申しわけない。あっちが本命だったとはなあ。……つまり、そういうことだったんだろ?」 苦笑混じりに言うフェッロに、反射的にリピピはうなずいていた。 「わかんねえよ。つまり、どういうことなんだよ」 むすっとした声が落ちてくる。タチナナに押しのけられ、腕組みをして立っていたローファルの後ろでタキがほほえんだ。 「事情はさておき、二人とも目を覚ましてくれて本当によかった。…どうぞ。のど、乾いてませんか?」 グラスを差しだされ、リピピはゆっくりと半身を起こした。タキのグラスを持たないほうの腕が、起こした背中に枕をはさみこむ。 「ありがとう、いただきます」 受けとった冷たい水を飲みほす。人心地ついたところで、答えを待つようにこちらを見おろしているローファルに気づき、リピピはあわてて口を開いた。 「ええと、その……つまりですね」 焦ってことばを選んでいるうちに、ようやっとフェッロの手をふり払ったらしきタチナナが、鼻息あらく引きついだ。 「イビルウェポンってモンスターがいるでしょう。ふわふわ浮いてる武具が本体で、襲ってくる異形のほうは、そいつに憑かれた生き物の成れの果て。あれと同じよ」 ローファルが露骨に嫌な顔をした。 「つまり……最初から、あいつはタチナナに取り憑いてたわけじゃなく、剣に宿ってそれを手に取った者を操ってたってことか?」 「操っていた、というのとは……少し違うんですよ」 そっと、リピピは言いそえた。 「現に、ファルさんはジュノからの道中ずっと、あの人の剣を持ち歩いていても平気でしたよね?」 「ああ、…まあな」 「ほんとうに必要なのは、物理的な接触じゃなくて…気持ちが重なることだったんだと思います」 目を閉じて思いだす。それだけで、よみがえる感覚に指先から冷たくなっていくような気がした。 「夢を見たんです。暗いところで、たったひとりで、ずっと取り残されている人の夢。だから……」 「ああ、もういい」 ローファルの深いため息が聞こえた。目を開けて、そのため息の主を見あげる。ローファルはかたく目を閉じ、鼻先にしわを寄せたしかめ面になっていた。自然、首がうなだれる。 「その……みなさんには、心配をかけてしまって」 「本当にそうよ。心の底から反省しなさい!」 「……ごめんなさい」 妹の憤然たる声に打たれ、さらに頭が下がっていく。その上から、もう一度深いため息が降ってきた。 「俺もな、……たぶん同じ夢を見たんだよ」 おどろいて、リピピは顔を上げた。目が合うと、こちらを見下ろすローファルの眉根がわずかにゆるんだ。 「あいつを送ってやれたんなら、苦労の見返りとしちゃあ十分だろ。……俺は、そう思う」 ぽん、と頭におかれた手はあたたかかった。 ふいに、目の表面が熱くなる。 うなずくふりでうなだれて、リピピはこみ上げる涙を押し隠した。 修道院の墓地のかたすみ、日当たりのよい草地に穴を掘る。 草いきれと湿った土のにおい。手首が入るほどの深さまで掘りさげ、黒々とした土の上に、ミシェルはしゃがみこんだ。 ふところに収めてきた布包みをそっと開く。 中に収められていた赤さびた砂は、さらさらとして、今にも風に溶けてしまいそうだった。おそらく、ミシェルが防壁の上に残されたそれをかき集めるまでの間にも、いくらかはこの国のどこかへと飛んでいってしまったのだろう。そうして、その砂の中に、唯一その部分だけかたちを残した鈍色の柄が埋まっている。 慎重に布をかたむける。さあっと静かな音がして、砂は穴へとすべり落ち、黒土をうっすらと赤く染めた。最後に残った剣の柄を、その上にそっとのせる。 土をかぶせてしまうのがためらわれて、しばらくミシェルはその様を見つめていた。 「何をなさっているんですか?」 背後からの声に、はっとミシェルは顔を上げた。立ちあがろうとして、声をかけてきた者が、しゃがんだ自分とほぼ変わらない背丈の持ち主であることに気づく。 視線が合って、見知らぬタルタル族の娘がにこりとほほえんだ。その後ろには、やはりタルタル族の青年が憮然とした顔で立っている。 「ああ、驚かせてしまったようですね。ごめんなさい。怪しい者じゃありません、ただのお墓参りですから」 「……こちらに、どなたかお知り合いが?」 思わず、ミシェルは問いかえしていた。この墓地に葬られているのは、エルヴァーンばかりであるはずだ。 「ええ、その……ほんとうに、こちらに葬られているのかどうかは、わからないのですけど」 彼ら特有のあどけないおもだちに不釣り合いな微苦笑をのぼらせ、娘は答えた。まったく、と青年の方が悪態をついた。 「閣下をお待たせしてまで寄るところがあると言うから何かと思えば、おるかおらぬかも知れぬ首長の墓参とはな。馬鹿らしいにもほどがある」 居丈高な物言いに、ミシェルは青年の姿を改めた。緑がかった上質のビロード生地のコートの、その肩口には勲章がいくつもかざられている。見れば、娘のほうも金糸でこまかな刺繍をほどこされた魔道士用のクローク姿だった。 彼らは外見では年齢の判じがたい種族だ。その言い様と身なりからすると、初見で思ったほど歳若くはないのかもしれない。 「……そんな言い方をしないでください、キーリトゥーリ。大戦では、ともに戦った仲間でしょう? あなただって、カルゴナルゴでは彼らのおかげでよほどの命拾いをしたのだって聞きましたよ」 たしなめる言葉に、ふんと男のほうが鼻を鳴らす。 「エトト、そなたこそ、いささか首長どもへの思い入れが過ぎるのではないか? ともあれ、そなたの酔狂につきあってばかりもおれぬ。私は先に行っているからな」 靴音高く歩きさった背中を見送って、申しわけなさそうに女性は眉を下げた。 「……すみません、連れが失礼を」 「いいえ、お気になさらないでください。もしかして、戦で亡くなった方のお参りにいらしたのですか?」 思い当たって、ミシェルは尋ねた。そうであるならば、たしかにここにはかつての大戦で命を落とした軍人たちが数多く眠っているし、彼らのための慰霊碑も置かれている。 「ええ……私の仲間を何人も、死地から救ってくださった方なんです。戦地ではぐれたきりになってしまって、その後ずいぶん安否を尋ねもしたのですが、消息知れずのまま……。あのころは、どこも混乱していましたからね。その方がどちらへ葬られたのかも、わからずじまいで。サンドリアへは軍務で来たのですが……」 わずかに、女性は目を伏せた。 「……せめて、この地で祈りを、と思いまして」 「そうでしたか」 ミシェルは手もとに目を落とした。 黒々としていた土は、日ざしに乾いて白く色を変えはじめている。そそいだ砂の赤さびた色ばかりが、いっそうあざやかに目を引いた。 この人にも、帰りを待つ者が、その不帰を嘆く者がいたのだろうか。 「……あなたのように、その冥福を祈ってくださる方がいらっしゃるのであれば、その方もきっと楽園の扉の向こうへとたどり着いていることでしょう」 思いながら言えば、ゆるくかぶりをふって、女性がつぶやいた。 「いいえ、私は……」 悔恨のにじむ声音だった。こらえるように、その眉根が寄せられる。 「この二十年、鎮魂の祈りひとつ捧げることができなかったんです。……立派な方でした。怯懦のさがで知られるタルタル族の私を信じ、同じ軍人として尊重してくださった。それなのに、命を捨てる覚悟でいたはずの私が結局生きのびて、あの方が死んでしまっただなんて信じたくなくて、……」 目を伏せ、女性はうつむいた。 「……まだ、踏みとどまることができたのではないか、あの方の信頼に値するだけの働きを、私は果たしたのだろうかと」 その横顔を、そっとミシェルはのぞきこんだ。 「ご事情は、わかりません。……けれど、あなたの仲間を救うために命を落とされた方であれば、あなたが生きておられること、それ自体が、その方のこころざしへの返礼となるのではないでしょうか」 見開いたひとみで、こちらを見つめる女性にミシェルは告げた。 「後悔や未練は、己ばかりか、亡くなられた方をもしばりつける鎖にしかなりません。その方を思われるのであれば、ただ、その魂の安らかなることを、祈ってさしあげてください」 泣きだしそうな顔で、けれど女性はかすかにひとみをやわらげた。 「……そう、ですね」 「私も、ちょうど、大戦で亡くなった方を弔っていたところなんです。……その方が我が身とも思っておられたのだろう遺品が、ようやくガルレージュ要塞から戻ってこられたものですから」 「ガルレージュ……そうでしたか」 おどろいたように、女性がつぶやいた。ミシェルの手元へと視線を落とす。 浅い穴に横たわる剣の柄を見て取ったひとみが、おおきく見開かれた。ゆるゆると、泣くような笑うようなかたちに歪む。 「あの……私も、その方のためにお祈りをしても?」 「ええ、もちろん」 おずおずと問いかけられて、ミシェルはうなずいた。 「祈りは、亡くなられた方にとってはなによりの慰めです。あなたが想う方のところへも、きっと、アルタナ様が届けてくださいますよ」 「……そうであればよいのですが」 女性はかすかにほほえんで、草地に膝をついた。両手で深くかぶっていたフードを払い落とすと、その髪を結いあげた花飾りを取って砂の上にのせる。 「………あなたの魂が、どうか、女神のもとで安らかにありますように」 昼下がりの墓地に、おだやかな風が吹く。 女性のほどけた緋色の髪が、陽光を受けてやわらかくかがやいていた。 fin. |