- 6 -


 ぞっとするような悪寒に、ローファルは毛布をはねのけ飛びおきた。
 とっさに剣を身体へ引きよせようとして、背筋が冷える。手のひらには何の手ごたえもなかった。さきほどまでこの手ににぎっていたはずなのに。
 混乱してあたりを見まわしたところで、記憶の齟齬に気づいた。
 ゆっくりと、こぶしを作っていた手を開く。薄闇の中、視線を落とした先にあるのは、いくつもの弓だこを作った指だ。狩人を生業とする自分が、剣などたずさえているはずもないのに。
「いまのは、……夢か?」
 思わず、口に出してつぶやいていた。
 凍るような暗く冷たい虚無が、妄執じみた願いが、身の内を這いまわる感覚。
 ただの夢と言うにはあまりに生々しいそれに、ローファルはわずかに身ぶるいをした。
 寝なおす気にもなれず、寝台から降りる。窓にかかった薄布を払った。
 夜明けが近いのだろう。二階の窓からは、白みかけた東の空がよく見えた。
 扉口のランプをつけようときびすを返したところで、耳を打った鈍い金属音に、ローファルは背筋を伸ばした。
 ……何だ?
 外から聞こえたそれに、窓辺から暗い街路を見おろす。
 音は続いていた。澄んだ剣戟ではない。不規則に、金属製の何かを引きずるような、耳ざわりな音。
 目をこらした先、視界のすみで、小さな人影が街路の角を曲がるのが見えた。
 見間違いかもしれない。けれど、嫌な予感を抑えきれず、手早く着がえてローファルは部屋を出た。
 こんな時間だ。隣室の彼女はまだ眠っているだろう。そのはずだ。
「悪い、入るぞ」
 声をひそめて、扉を開ける。
 まず目に入ったのは、開かれた窓。吹きこむ風に揺れるカーテン、しわの寄ったシーツと、空っぽの寝台。
「冗談よせよ……くそッ」
 思わずうめきがもれた。舌打ちをして、窓を乗りこえる。桟に手をかけ、邸の外壁にぶらさがるようにしてから庭へと飛びおりた。
 屋敷の生垣を飛びこえ、街路へ出る。そのまま、人影の消えた方向へとローファルは走った。
 焦るな。半病人の足だ、追いつける。
 はやる気持ちを抑え、立ちどまって耳を澄ます。途切れ途切れの音をひろって、また駆けだした。
 槍兵通りから裏路地へ。両脇におおいかぶさる民家は静まりかえっている。路地の出口近くまで来て、前方をふわふわした足取りで進む仲間の姿が目に入った。
「おい、リピピ!」
 抑えたつもりの声は、夜明け前の石畳に思ったよりも高くひびいた。
 娘が立ちどまった。ふり返る。
 安堵とともに、ローファルは足取りをゆるめた。
 こちらを見ている彼女の表情は、表通りから差しこむ街灯の明かりを背にして陰になっていた。
 その小脇には、ほどけかけた包帯の絡んだ剣。地に引きずられた切っ先から、長く伸びた影がローファルの足もとまで伸びている。
「どうしたんだよ、こんな時間に……」
 すっと、リピピの片手が上がった。なめらかに印を切る。
「かの……に……眠りを……」
 とぎれとぎれの、小さな声が届いた。
「…嘘だろ?」
 唖然とするうちに呪言が完成する。唐突な睡魔に襲われ、ローファルはひざをついた。
 体を起こしていられない。崩れおちながら必死にかすむ目を凝らす。見つめるローファルの視線の先で、何事もなかったかのように歩きだしたリピピは、そのまま暁闇に姿を消した。


「………おい……おい」
 男の声と、ゆさぶられる振動に、ローファルは目を開けた。
「こんなところで寝るんじゃない。身ぐるみはがされてもしらんぞ、酔っ払い」
 巡回兵らしき男が、倒れた自分の腕に手をかけていた。その肩ごしに見える空はまだ暗い。
「ああ、やっと起きたか。まったく、いくら王都の治安が良いと言ってもだな…」
 ひざをついていた兵士が、呆れ顔で立ちあがりかけた。
「待ってくれ」
 とっさに、ローファルはその腕をつかんで問いかけていた。
「あんた、剣をひきずって歩いてる妙なタルタルを見かけなかったか」
「ああ? 剣を持ってたかどうかまではわからんが…タルタルなら、しばらく前に西門のほうへ歩いていくのを見たな。…何かあったのか」
 途中から怪訝そうな顔つきになった相手に、ローファルはあわてて首を振った。
「いや、なんでもない。ありがとう、助かった」
 半身を起こしたとたん、眩暈がした。魔法の眠りを途中で破ったからか。
 ふらつかないように、ローファルはゆっくりと立ちあがった。背後に巡回兵の視線を感じながら、焦る気持ちをこらえて歩きだす。魔法を受けたことを、兵士に悟られるわけにはいかなかった。
 正当防衛を除き、市街地における民間人の攻撃魔法の使用はご法度だ。
 それはもちろんアルタナ四国共通の取り決めだったが、強い魔力を持つ者への畏怖や偏見が根強いこの国においては、特に厳罰が下される傾向にある。そんなことは、リピピも重々承知しているはずなのに、なんだってあんな真似を。
 混乱を引きずったまま路地から出ると、西門前の屋台が並ぶ通りに出た。
 ここからさらに東へ行けば凱旋広場だ。広場へ向かったのか、それとも西門へ行ったか。判断に迷って、ローファルは立ちどまった。
 あの室内着のようないでたちでは、門番に見とがめられるだろう。耳を澄ませても、西門の方向でさわぎが起こった気配はない。見切りをつけ、広場へ向かおうと走りだしかけたところで、目のはしに映った人影にローファルは足を止めた。
 門へと続く通路から少しはなれた位置に、王都を囲む防壁の一部を切りとってぽっかりと開いた階段がある。防壁の上へと登るためのものだ。その入り口に立つ神殿騎士が、不自然な姿勢で壁へよりかかっている。
 そのそばへと寄って見れば、ぐっすりと眠りこんでいる様子だった。
「……おい」
 声をかけても反応がない。ただのうたた寝ではない熟睡ぶりにひやりとしながら、肩に手をかけ身体をゆさぶった。
 はっと騎士が目を開けた。抱えていた槍を取りおとしそうになって危なっかしくよろめく。
「うわ、すみません隊長! 起きてます起きてます! ……って」
 寝ぼけ顔でわめきかけた途中で、目の前に立つ人間を正しく認識したらしく、男は言葉を切った。わずかな沈黙の後、顔を赤らめ早口でつづける。
「なんだ、冒険者か。いや、その、さぼってたわけじゃないぞ。なんだか急にありえないほど眠くなっちまって……いやいや、寝てなかったけどな!」
 こいつは、自分が眠りの魔法をかけられたことに気づいただろうか。見さだめようと凝視する視線を、相手は勘違いしたようだった。気まずそうな顔で問いかけてくる。
「いやあ、まあ、なんだ、……黙っててくれよな」
「ああ、告げ口なんてしやしないさ」
 どうやら大丈夫そうだ。内心安堵しつつローファルが言うと、男もほっとした顔になった。
「寒い中ご苦労さん」
 かるく聞こえるように言って横をすり抜け、階段へと足をかける。止められるかと思ったが、先ほどのやり取りのせいだろう、男は何も言わなかった。



 暗い螺旋階段から、ゆっくりと、防壁の上に足を踏み出す。
 風が一陣吹き過ぎて、ローファルは目をすがめた。
 夜明け前の街は、美しい青に沈んでいた。遠くには、影絵めいた凱旋門の尖塔が見える。
 通路のへり、エルヴァーンの腰の高さほどの石組みの上に、街を見下ろすようにして彼女は立っていた。
 その姿は、まるで彫像になったかのように動かない。声をかけようとして、ローファルは息を飲んだ。
 気づけば、娘の後ろに、背の高い男が立っていた。
 男は、眠る王都をただ見下ろしていた。白皙の横顔にかかる銀の髪が、かすかに揺れる。その輪郭はどこかあいまいで、そのまま風に溶けそうなほどに気配が薄い。
 濃紺の胴衣を縫いこんだ鎖帷子に、提げるは精緻な文様の打ちだされた大型の盾。背筋を伸ばしてまっすぐに立つ騎士の姿には、この世ならざる者の持つ、侵しがたい静謐があった。
「…………ッ」
 呑まれそうになった己を、ローファルは払いのけた。つばを飲みこみ、今度こそ声を出そうとしたその時。
 東の空、街並みと接するその境目がすうっと白くなった。こぼれだした金色の光が、朝もやに沈む王都を照らしだす。
 藍色の空が、みるみるうちにその色を淡くしていく。
 あざやかな群青から、明るい青。そして透きとおるすみれ色へ。

(帰って、きた……)
 風の音にも似た、かすかな声がした。
(無事だったのだ。この国は、この街は……)
 立ちつくすリピピの目から、ぽろりと涙がこぼれた。あごを伝って、はるか下へと落ちていく。
 ゆっくりと顔を仰向かせた彼女のひとみが、空の色を映して、暁のすみれ色に染まる。
(帰って……私は、かえってきた……)
 その背後で、ささやく男の銀色の髪が、長身が、光のなかに熔けていく。
 リピピの手のなかの剣が、さあっと砂のように崩れおちた。




back(5)       novel       next(7)