■  花の名前  ■



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 かの地へ足を向けたのは、たぶん気まぐれだった。
 永遠に、姿変わらぬ小さき王の治める国。


「栄えていると、聞きおよんではおったが…」
 シエラは都を囲む防壁の上から、ためいきをついた。
 このデュナンの地を覇するレグルス国、首都たるミューズ。
 かつて都市同盟の盟主であったこの地は、新しい国家においても中心として繁栄を続け、シエラの記憶よりもはるかにその規模を大きくしていた。
「さて」
 シエラは小首をかしげた。
「…居所がわかっておる者くらいには、挨拶に行くべきかのう?」
 ふむとシエラはうなずいた。次の瞬間、少女の姿は翼有る小さきものへと変化する。
 やわらかな陽光降りそそぐ春の空を、ひらりと、蝙蝠の白い翼がかすめていった。



「遅かったのう。まったく…わらわは待ちくたびれたぞ」
 部屋に入ってきた人影へ、豪奢な椅子にふんぞり返ってシエラは言い放った。
 言われた少年は、大きなはしばみ色のひとみを限界まで見開いている。
「………………」
 絶句している様子に、シエラは眉を寄せた。
「なんじゃ。よもや、わらわを見忘れたとは言わさぬぞ」
 ようやっと、少年の口が言葉をつむぐ。
「シ…シエラさん!」
 シエラはうむとうなずいた。
「我が従者の分際で、なかなかよい部屋を使っておるではないか。近くへ来たついででな、挨拶に来てやったぞえ」
 少年は、いまだ呆然としたふうにつぶやいた。
「シエラさん、いったい、どこから…」
「窓からに決まっておろう。おんしのところの警備は、いったいなにをやっておるのじゃ? 今後は、頭の上にも注意をおこたるなと言っておくがよかろうな」
「いや…その、普段空から侵入者なんて、来ないから…」
 市庁舎とは別に建てられた国府の最上階が、少年の居室だった。
 シエラはフンと鼻を鳴らした。
「まあ、良いわ。…で、おんしは客人をもてなす配慮も持たぬのか?」
「あ、あ、うん、今すぐお茶でも出すよ!」
 あわてたそぶりで身を返しかけ、少年は足を止めた。
 シエラに向きなおり、まじまじと見つめてくる。
「……わらわの顔に、なんぞついておるか?」
 シエラが顔をしかめると、少年はフルフルと首をふった。
「ううん…言うのが遅れたけど」
 ふわりと笑う。
「いらっしゃい、シエラさん。たずねてくれて、うれしいよ」

 出されたもてなしに、シエラは口をとがらせた。
「なんじゃ。茶はまあよいとして…これしかないのか?」
 指さす先にあるのは、きれいにむかれたうさぎリンゴ。
「しょうがないじゃないか…お客が来てるから用意して、なんて言えないし」
 張りあうように、むうと少年は口をとがらせてみせた。
「これくらいしか、すぐに出せるものってなかったんだ」
 言って、持っていた竹串でリンゴを刺す。ぱくりとかじる姿は、見た目の子供らしい姿と違和感がない。
 シエラは、本当に久しぶりに見る少年の姿を観察した。
 栗色の短い髪も、けして高くない背丈も、自分と同じく昔と何一つ変わるところはない。…いくぶん、線が細くはなったか。
 卓に両ひじを付き、シエラはふと尋ねた。
「どうじゃ、カイ。まつりごとはうまくいっておるか? わらわは国情にはうとくての」
 少年は、一度またたきをした。
「……そうだね」
 こどもこどもした顔つきが、国主のそれに切り替わる。シエラは知らず目を見はった。
「今はもう、ほとんど一つの国として一制度でまとまっているから。…それがいいことなら、うまくいったって、言えるんじゃないかな」
 淡々とした口調で、少年は続けた。
「今ならたとえあるじが変わっても、分裂の危険性は、低いと思う」
 手にしていた果実を、ことりと皿におく。少年は、どこか醒めた視線を窓の外へ投げ遣った。
「ごく初めは、各都市の自治を尊重していたけど…だんだん、都市それぞれを解体していって。まだ、都市の指導者たちにも、ぼくを英雄かなにかみたいに心棒する人が多かったころにね」
 かるく肩をすくめる仕草に、シエラは、昔の少年にはなかったなにかを感じとった。
 肉体がどうあろうと、歳月は人の精神を変えていく。それ自体は自然のことわりであり、けして悪しきことではない。けれど。
 その事実に感傷じみたものを覚えるのは、…かつて少年たちとともに過ごした時間をなつかしむ心が、自らの中にあるからか。
 しかし表情には出さず、ただシエラは首をかたむけた。さらりと銀の髪が頬をすべる。
「おぬし、きちんと休んでおるか?」
「え……?」
 突然の質問に、きょとん、と少年は目を丸くした。
「休んでいるか、と聞いておる!」
「え…えっと、その…それなりには」
 どもりながら、応えが返る。ふうとシエラはため息をついた。
「どうやら、不健康な生活を送っておるようだのう…こどもは寝ることも仕事のうちぞ?」
「あの…ぼくもう、百は超えて…」
「わらわから見れば、その程度ひよっこも同然じゃ!」
「前から思ってたんだけど、シエラさんって今いくつ…」
 シエラの表情に、少年はぶんぶんと首をふった。
「……な、ななんでもないです!」
 シエラは、剣呑な笑みを浮かべた。
「おびえるでない。こどもの言いおることに目くじら立てるわらわではないわ」
 きっぱりと言い捨て、席を立つ。
「………おもてへゆくぞ。来やれ」
 ちょいと招くと、わたわたと少年も立ち上がる。
 にっこりと、シエラはうなずいた。
「こどもは、素直が一番じゃな」


 適当に、少年を冷たい建物からその中庭まで引っぱり出す。
 あたりは新芽が萌えだし、そこここに早咲きの花の姿も見えた。
 すうと深呼吸すると、植物のさわやかな香りが胸を満たす。
「だいたい、一日外にも出ぬから、そのように不健康そうな顔つきになるのじゃぞ。良い若者が、恥ずかしいとは思わぬのかえ?」
 不満げに少年は何かつぶやいたようだった。
「それ、シエラさんに言われたく…」
 無視して、シエラはずんずんと歩いた。
 ふと、後ろに続く足音がないのに気づく。
「なんじゃ、カイ。どうかした…」
 少年は、遊歩道の脇に植わった木を見上げていた。
 細い枝が、道へ張り出すように低いところへ広がって伸びている。その枝先には、小さな深紅の花がいくつもついていた。
「プリマヴェーラ」
 少年は、ふうっと呟いた。ゆるゆると、その細い腕が花枝へ伸ばされる。
「ああ、…もう、咲いてたんだ」
 シエラは、呆然と聞きかえした。
「……プリマヴェーラ?」
 少年が、シエラの方へ目を向けた。
 シエラは、ふらりと一歩、少年へ…いや、その樹へと近づいた。
「それは…どうしてその名を、おぬしが知っておる」
「え?」
 とまどったように、少年は目をしばたかせた。
「その花は…」
 言いかけ、シエラは既視感におそわれた。
 どこかで、同じような会話を。…あれは、いつだったろう。
 答えは、目の前の少年から返ってきた。
「昔、クラウスさんが…そういう名前なんだ、って」



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