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 もうずっとずっと前のこと。
 戦も終わり、その後処理の中だったか。
 どこか落ち込んだふうの副軍師の青年を、本拠の空中庭園へと引っぱり出した時のこと。
 手入れされた花々にあふれるなかでふと目に留まったそれに、つぶやいたのはシエラだった。
「まあ。プリマヴェーラですわね…」
 隣に立った青年は、観賞用らしく整えられた樹の幹に触れ、不思議そうにシエラに問うた。
「プリマ、ヴェーラ? …そのような名でしたか?」
 シエラは、小さく首をかたむけて青年を見た。
 生真面目そうなしぐさで、青年は少し上を見上げた。長い前髪がさらりと流れ、午後の陽が、そのひとみに明るく透け入る。
「ハイランドにはない種の植物ですから…自信はありませんが。確か、…ブーゲンビリアというのでは、なかったでしょうか」
 ああ、とシエラはうなずいた。
「先に申しました名は…おそらくはもう、失われた言葉ですわ。今はそのように呼ばれているのですね…」
 青年は、つぶやいたシエラをじっと見つめた。
 …まずい、おかしなことを言うたか。
 見かけ十代、なかみ数百の齢を重ねるシエラは、あどけなさを意識して、ぱちぱちとまたたきをしてみせた。
「なんですの…?」
 青年は、にっこりと笑みを返した。
「シエラさんは本当に、いにしえごとに造形が深くていらっしゃる」
 ごまかせたかと内心息をついて、シエラも微笑みかえした。
「いいえ…そんな」
 恥じ入るように、うつむき、頬を染めてみせる。
「ただ、ひなびた地に長く住まっておりましたゆえ…世事に疎いだけですわ。お恥ずかしいばかりです。……ブーゲンビリア、でしたわね?」
 その名を何度か口の中で呟く。
「大丈夫。もう覚えました」
「……どうしてですか?」
 ふいに問われて、シエラは顔を上げた。真面目な瞳と目が合う。
「え?」
「無理にその名で呼ばれずとも…プリマヴェーラ、奇麗な名前ではありませんか。私は、そのほうが好きですよ」
 シエラは戸惑いに眉を寄せた。
「でも…それでは、みなさまには通じませんわ」
 ゆっくりと、青年の腕が上がった。小さな紅い花に、指先をそっと触れさせる。
「…どのように呼ばれようとも、その花に違いはありませんよ。それに、プリマヴェーラという名は…シエラさんの生きてきた地が在ったこと、その証なのではありませんか…?」
 かすかに伏せたまつげが、色素の薄い頬に影を落とす。
「それが失われてしまうのは…悲しいことのように思います」
 故郷を失った青年は、シエラへ寂しげに微笑みかけた。
 シエラは、しばらく青年の顔を見つめていた。
「……クラウスさん」
「はい?」
 シエラは、背の高い相手にかがむようにと手招きした。
 素直に身を折った青年の頭を、シエラは引き寄せた。間近に整った顔をのぞき込む。
「シ、シエラさん?」
 シエラは、うろたえる青年のうなじを抱く腕に力を込めた。
「どのような名で呼ばれようとも…この花の美しさに、違いはないのでしょう?」
 青年はとまどうようにひとみをまたたかせてから、わずかにうなずいた。
「同じですわ、クラウスさん」
 どうか、この者の心が安らぐように。願いを込めて、続ける。
「たとえどのように呼び名が変わり、時が移ろおうとも…かの地の美しさも、なにも変わりはしませんわ」
 青年はしばらく黙り込んで、それからかすかに微笑んだ。
「ええ…そうですね」
 微笑んだ口元が、悲しげに歪む。
「わかっています。それでも…我が母国が永遠に消えてしまったことが、かの国が忘れ去られてしまうことが、耐えがたく思われるのは……私の、弱さですね」
 シエラは、小さく息を吸った。
「わたしが、忘れません」
 もう、最後なのだから。
 この青年の、いくらかのよすがとなるのなら、この身の真実を明かしてもかまわない。ふと、そんな気になったのだ。
「知る者が語る者が、誰もいなくなっても。…ずっとずっと、わたしがかの国のことを覚えていますから」
 青年は、すこし驚いたようにシエラを見つめた。
 しかし、奇妙に聞こえたはずの言い様を、問い返す言葉はなく。
 ふっとその表情が、おだやかな笑みに変化した。
「……ありがとうございます。シエラさん」


 その数日後、自分が旅立つ日に。
 城門まで見送りにきた青年は、紅い花枝をひとつ、差し出した。
「いつかまた、この地を訪ねてください。旅に疲れたときに」
 言って、青年は静かに笑んだ。
「きっと…待っていますから」

 それが、青年を見た最後だった。
 亡くなったのだと人づてに聞いたのは、もうずいぶんと昔のことだ。
 





 紅い花影、揺れる木陰で。
 なつかしすぎる名前に、シエラはふるえる声を抑えて問うた。
「クラウスが、この花の名を…プリマヴェーラと?」
「うん、そうだよ」
 少年はうなずいた。
「この樹は、…ええと、首都がミューズに落ちついてから、すぐだったかな。クラウスさんが、本拠にあったのから挿し木をしたものなんだけど。その時に教えてもらったんだ」
 少し間をおき、付け加える。
「それで、枯れないように……できればぼくが、気にかけておいてほしい、って。…ずっと」
 最後の一言に込められた重みはそのまま、少年の過ごしてきた、そしてこれからも続いていくだろう年月の持つ重みだった。
 シエラは、何と言えばいいかわからず、ただうなずいた。
「…そう、か」
 しばらくの沈黙の後。花を小さな手に包み、少年はぽつりとつぶやいた。
「この花が咲くのを、待ってたんだ」
 ただきれいな花を待つには重い声だった。
「……何ゆえに?」
 少年はうつむいた。
「言ってたから」
 そっとささやくように、言葉を紡ぐ。
「いつか……誰も、いなくなってしまっても。変わらず、この花は咲くからって。
 だから、待ってたんだ」

 たとえ、自分がいなくなってしまっても、花は。
「……ああ」
 あの日、青年が告げなかった言葉を、聞いた気がして。
「そうだのう、……クラウス」
 シエラは、花咲く枝を手に取った。
 折ってしまわぬよう、そっと引き寄せる。

 やさしかった青年はもういない。
 それでも、かの地は今も変わらず。
 この花は美しく咲きつづけるのだ。
 かつて自分が語ったように。

 シエラは、花枝の上から胸を押さえた。


 今も咲く花は美しいのに。






fin.


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