■  楽園の果実  ■



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 船の丸い窓から差しこむ陽光の中。
 ペンをすべらせる手を止めて、アティはうーんと伸びをした。
「今日は、ここまで……と」
 木製の簡素な書き物机から立ち上がり、窓を押し開ける。
 日差しにあたためられていたほおを、するりと潮風がなでていった。ここちよさに、目を細める。
「久しぶりに、気持ちのいいお天気になりましたねえ」
 ここ一週間ほど、荒れ模様の天候が続いていたのが、嘘のような晴天だった。
 明日の授業の用意もすませたし。昼食にもまだまだ間のある時間だ。ふむ、と首をかしげる。
「せっかくですし、ぐるっとお散歩でもしてきましょうか」
 ひとりごちて、アティは部屋を出た。行きがけに厨房をのぞくと、ちょうど昼食の下ごしらえの最中で、金髪の少女がナイフ片手に何ごとか考えこんでいる。
「ソノラ?」
 アティは扉口から少女に声をかけた。
「ちょっと、出かけてきますね?」
「あ、待って待って先生!」
 引き留める声に、アティは行きかける足を止めた。
「出かけるなら、ちょっと、頼みたいことがあるんだけど…いいかなあ?」
 少女が、お願い、とかわいらしく手を合わせてみせる。
「うん? なあに?」
「あのね、ゲンジさんのところから、オショーユって調味料をもらってきてほしいの」
「オショーユ?」
 聞きなれない言葉にアティは首をひねった。
「そう! こないだね、オウキーニも使ってたんだけど、塩焼きの魚と相性ばっちりで、そりゃあもうおいしかったんだから」
 アティは厨房をのぞき込んだ。簡易な備えつけの調理台には、新鮮な魚を数匹入れた魚籠がある。
「先生がせっかく旬の魚を釣ってきてくれたから、うちでも試してみようかなって思ってさ」
 灰色のひとみを細めて笑った少女に、アティも笑顔を返した。
「じゃあ、かわりにそこのお魚を一匹、ゲンジさんに持っていっていいかな?」
「うん、いますぐ包むから、ちょっと待ってて」
 言いながら、少女はすばやく左右を見まわした。皿に敷く大きな緑の葉を一枚取りあげると、くるりと巻いて、簡単にひもでしばって、またたくまに包みらしきかたちに仕立てあげる。
「はい、どうぞ」
「すごいすごい、ソノラはやっぱり器用だね」
「へへ、まっかせて!」
 照れた顔をしつつも、まんざらでもない様子で、少女はぴっと指を立てた。
「それじゃ、行ってきます」
 軽く手をふりかえし、アティは風雷の郷へと歩き始めた。



 何ごともなくゲンジ翁の庵へのお使いをすませ、竹林の道を引き返す。
 さらさらと涼しげな音が耳をくすぐった。見上げれば、ほこりを洗い流された竹の葉が、明るく澄んだ緑の光を落としている。ふところにおさめた魔石にも似たかがやきに、アティは目をほそめた。
 竹林から出て、村の中を歩くことしばし。
 少し遠くから、知った声が聞こえてアティは足を止めた。
「…あれ?」
 なんとなく道を外れ、たどりついた先は、水面を陽光にきらめかせる大蓮の池だった。常よりにごった水の色を、こどもたちが三人並んでのぞきこんでいる。
「スバルくん、パナシェくん、それに…」
 並んだ後ろ頭に、知らない色があった。好き放題にはねた紺色の髪。くたびれたオーバーオールのおしりからは、ふさふさとした同色のしっぽが下がっている。
「こんにちは、みんな」
 声をかけると、三人ともがふり向いた。
「あ、先生!」
「まーた、しょうこりもなく挑戦しにきたのかよー?」
 ぶんぶんとしっぽをふるパナシェの横で、スバルが紅いひとみをにんまりと細めた。
「せっかくだけどさ、今日は、ちょっと無理だぜ」
「そうそう、なんだかね、嵐のせいで葉っぱの場所が変わっちゃってるみたいなんだ」
 はずむような声の影で、もうひとりの見知らぬ子供が、つり目がちのひとみを大きく見開いた。正面から見れば、人の子にオオカミの耳と尾をつけたような姿をしている。初めて見るが、昔学んだ知識から、亜人の一種オルフルだろうとアティは見当をつけた。
「ううん、きみたちの声が聞こえたから、来ただけなんですけど」
 ほほえんで、アティはその子の前にかがみこもうとした。
「ええと、あなたは…初めまして、ですよね?」
「ウウゥッ…」
 じり、と子供が後ずさる。その髪の毛から、つんと突きでた耳が後ろに伏せた。
「?」
 アティが、もう一歩踏み出した瞬間。
「セリカに近づかないで!」
 甲高い声が、打つように響いた。
 疾風の勢いで、アティのとなりを、子供とよく似た姿の娘が駆けぬけた。
「え、え、えっ?」
「おいおい、なんだってんだよ!」
 おどろいた様子のスバルたちにはかまわず、そのまま、倒れこむようにしてセリカと呼ばれた子供を抱きしめる。ふりかえった亜人の娘のひとみが、アティの姿を映してらんらんと紅くかがやいた。
「あんた…ッ」
 低くうなるように、呟く。
「あんた、外から来たっていう召喚師ね」
「はい、アティと言います。初めまして」
 明らかな敵意にとまどいながらも、アティは地にひざをついた娘を助けおこそうと、手を差しだした。
「さわらないでッ!」
 ザリッ、と嫌な音がした。手ひどくはねのけられた衝撃の後、焼けるような痛みが手の甲を襲う。するどい爪でもってえぐられたのだと気づくのには、少し時間がかかった。
「セリカもあたしも、あんたの道具になんかならない! この子は、連れていかせやしないんだから!」
 言い捨てると、娘は子供をかかえたまま俊敏に身を起こし、あっというまに駆けさっていった。
 言葉を失い、アティはその背中を見送った。
「せ…先生、だいじょうぶっ!?」
 うろたえた声で、パナシェが叫んだ。
 生暖かい感触が、指を伝いゆっくりとすべり落ちていく。
 ぱたん、と。
 鮮血が、地面に黒い染みを作った。




「……ヤッファさん?」
 控えめな声がした。
 つづいてほっそりした指先が、庵と外をへだてる布をかきわけ、紅い髪の娘が現れる。
 ヤッファは、草の敷物に伏した半身をゆっくりと起こした。
「アティじゃねえか。……どうしたってんだ?」
 すこし困ったように笑って、娘は小首をかしげた。
「あのですね、ちょっと、ヤッファさんに聞きたいことがあって…」
 目を細め、ヤッファは娘を手招いた。素直に近寄ってくる彼女の手首に、手を伸ばす。つかんで、ぐいと引き寄せた。
「きゃっ!?」
「その傷はよ」
 目の前にへたりこんだ娘は、少しおどろいた顔をした。
「ええと、…わかっちゃいました?」
 ごまかすように、あいまいに笑んでみせるのに顔をしかめる。
「あたりまえだろうが。そんな、血の臭いをぷんぷんさせてりゃあな」
 長い袖をまくり上げれば、手の甲には白い布きれが巻いてあった。
 検分しているそばから、血の染みはごくゆっくりと、けれど確かに広がっていく。
 どうして召喚術で治さないのか。そう問おうか問うまいか考えて、結局やめにした。
 なにがしか理由のあることなのだろう。吹けば飛ぶような見てくれに似合わず、こうと決めたら彼女は強情だった。
「そこに座ってな」
 代わりにため息を一つ。重い腰を上げると、隅に置いたつづらをかきまわす。
「あの…ヤッファさん?」
 雑多ながらくたを放りだしながら、ヤッファは舌打ちをした。
「なんだか、色々なものが出てきますね…」
 いっそ感心したように娘が言う。
「ほっとけ! っと…ああ、これだ」
 底の方まで掘りかえし、水薬の入った竹筒と血止めの軟膏、それから麻布を取りだした。
「ほれ、手ぇ出せ」
 おずおずと差しだされた手を取る。
 しばったハンカチをひきはがして、ヤッファは娘の傷をあらためた。ひとすじ、深くえぐられた傷口に、見る見るうちに鮮血が盛りあがる。小さくやわらかな手に、それはひどく痛々しく見えて、ヤッファは顔をしかめた。
「こりゃまた、ずいぶん派手にやられたもんだな、おい」
 黒々と土の見える土間へと手を引いた。ざばりと、水薬で傷を洗い流す。そうしておいて、堅い木の実を削った薬入れから、木べらに軟膏をすくった。
 ぐい、と傷口にすり込むと、娘は小さく身体をふるわせた。うつむいた口元がわななき、軽くくちびるがかみしめられる。紅い髪の一房が、ぱらりとその胸元にこぼれた。声を上げなかったあたりは、さすがに元軍人か。
 手早く薬の上から麻布をしばりつけて、ヤッファは、ぽんと娘の背をたたいた。
「まぁ、当座はこれでいいだろうよ」
 娘が、つめていた息をほうっと吐いた。白くなっていたほほに少し赤みが差す。
「ありがとうございます、ヤッファさん」
「いいってことよ。念のために化膿止めの薬湯を入れてやるから、もうすこし待ってな」
 ふたたびつづらをのぞき込む。油紙に包んだ茶葉やら薬草やらを選びだしているうしろから、遠慮がちに娘の声がかかった。
「あのう…ヤッファさん?」
「ああ? なんだよ?」
 しばらくの沈黙のあと、思いきったように娘は口を開いた。
「オルフルの人たちが暮らす集落の場所を、教えてくれませんか?」
 ヤッファは娘をふり返った。
「なるほど。その傷は、オルフルの嬢ちゃんにやられたってわけか」
 娘は、ばつの悪そうな顔でなにも答えなかった。
「最初に言っとくがな、アティ。オレも、あいつらの居所は知らねぇのさ」
「え?」
 おどろいた様子の娘に、苦笑いをする。
「あんたも幻獣召喚を得手としてるなら、知ってるだろう? あいつらは決まった住処なんて、持ってやしないぜ」
 あ、と娘が声を上げた。
「オルフルは、群れをなし獲物を求め、たえず移動しつづける生来の狩人… そういえば、そうでしたね」
 教本でも朗読するような調子で言った娘に、ヤッファは肩をすくめた。
「ただ、群れなんてご大層なもんはねえがな。なにしろこの島に住むオルフルは、イリアとセリカだったか、あの二人っきりだ」
「えっ、そうなんですか?」
 娘は、ひとみをまるく見開いた。それを肩ごしに見やって、ヤッファは続けた。
「もともとありゃあ、数の少ない氏族だったんだが。今はもう、メイトルパでさえそうはお目にかかれなくなっちまった…」
 隅で沸かしていた湯の中に茶葉を放りこむ。
「そしてそいつこそが、あんたがオルフルのお嬢ちゃんに手ひどくやられた理由ってわけさな」
「…どういうことです?」
 困惑した声に、選りだした薬草を椀ですりつぶしつつ、ヤッファは答えた。
「あんたも知ってのとおり、オルフルは、頑強な体にすぐれた運動能力、鋭い牙と、勇猛さをそなえた…つまるところ、とびぬけて戦闘向きのやつらなんだがよ。こいつが、リィンバウムの人間にとってどういう意味を持つか、わかるかい?」
「それは…まさか」
 しばらくためらう気配のあと、娘はささやいた。
「兵士として用いるための、召喚を?」
「ま、そういうこったな」
 ヤッファは首肯した。
「この世界の戦に駆りだされ、不具になって送還されたやつぁまだ運のいいほうさ。たいがいは、物言わぬ骸となって還ってくる」
「そ、んな…」
 泣きそうな声に、こちらまで胸が痛いような気になって、ヤッファは息を吐いた。
 一部では、暗殺用の道具として使役されているとも聞く。恐れを失わせる薬漬けになって還ってきた者の、とりとめもないうわごとから拾った話とのことであったから、真偽のほどは定かでないが。
 少し考えて、薬草をすりつぶす椀の中に、ヤッファは干したナツメを加えた。そこに、湯を注いで溶かしこむ。ほのかに甘い香りが、湯気に混じってふわりと立ちのぼった。
 椀を手に載せ、ヤッファはふり返った。
 娘はうつむき、布に包まれた手をかたくにぎりしめていた。その顔色は、失血を差しひいても血色がよいとは言いがたい。
「…そんな顔すんじゃねえよ」
 ヤッファは、娘の頭にぽんと片手をおいた。くしゃりとかき回して、もう片方の手に包んだ椀を手わたす。
「ほれ、できたぞ」
 娘は素直に受けとって、ときおり見せる、少し困ったような、そんな笑いかたをした。
「ありがとうございます…」
「それを飲んだら、今日は、もう帰んな」
 できるだけやさしい声音を選んで、ヤッファは言った。
「あんたのことだ、オルフルの嬢ちゃんたちと話をしたいってんだろうがな。その機会ならまたあるさ」
「…はい」
 娘は、ゆっくりと一口ずつ薬湯を飲みくだす。
「そういえば、この薬湯…このあいだもらったものより、甘くて飲みやすいですね。何が入ってるんですか?」
 口を休めた娘が、首をかしげて見上げてくる。ヤッファはふと思いついて、人の悪い笑みを作ってみせた。
「言っちまってもいいのかい?」
「え…? ええ、そりゃあ、まあ」
「ほほう、腹は据えてあるってわけだな」
「…え、ええっと?」
 あの、ちょっと、などともごもご言っているのを聞こえぬふりで。
「そうさなあ」
 思わせぶりにあごをひとなでして、ヤッファは指を折った。
「主なところは、焦がしたイモリを挽いて粉にしたやつなんだが…そこに干したクモの子を加えてだな」
「や、やっぱりいいです! …もう、ヤッファさんの意地悪っ」
 牙をむいて、ヤッファはくつくつと笑う。娘は少しむくれた様子で白い喉をそらし、ごくりと薬湯を飲み干した。
 ふう、と息をつく。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさん、…って食いもんじゃねえぞ」
「うーん? そういわれれば、そうですねえ」
 他愛のないやりとりに、娘はふふ、と笑って、けれどまた思いだしたように表情をくもらせた。
「…なあ、アティ」
「はい?」
 娘が何を思って召喚術を使わなかったかを察して、ヤッファは苦笑した。
 らしいといえば、実に彼女らしい。
「召喚術それ自体は、単なる技でしかねえんだぜ。どうあつかうかなんてのは結局、使い手次第なんだよ」
 おどろいたように、娘はヤッファの顔を見つめた。
「アティ、あんたは、異世界の住人を使い捨ての道具だなんて思っちゃいないだろう?」
 娘はうつむいた。さらりと、紅い髪が流れおちる。
「その、つもりです…」
「なら、いいんじゃねえのか」
「……ありがとうございます。ヤッファさん」
 娘はほんのりと微笑んだ。白い外套のすそを払って、立ち上がる。
「それじゃ、私、帰りますね」
 ひざに抱えていた帽子をかぶりなおし、ちょこんと頭を下げて。娘は、庵から出て行った。

「でも… 誓約と魔力でもってその助力を強いるなら、結局」
 聞かせるつもりもなかっただろう、遠く小さな独白は、けれどヤッファの耳に届いていた。
「おなじこと、なんじゃないかと思うんです」



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