気がつけば、仲間の中性的な美貌がごく間近にあって、アティはまばたきをした。 「…スカーレル?」 「どうしたのよ、ぼーっとしちゃって」 すぐ目の前で、はたはたと手をふられる。白くてしなやかな指先、闇色に染められた爪が、ひらりとひるがえった。 「あ… いえ、その…」 「もしかして、この魚、先生の口に合わなかった?」 不安そうに横から問うた少女に、アティは急いで首をふった。 「そ、そんなことないよ、ソノラ」 焼き魚に手をつけたところで、動きが止まっていたらしい。 あわてて魚の身をほおばった拍子に、ちくりと小骨がのどを刺した。 「んむ? ん、んんっ!」 「ああっ、そんながっつくから〜! ほら、これ!」 少女が投げてくれた白パンを呑みこんで、骨と一緒に流しこむ。 「…ふう」 「おいおい先生、大丈夫かよ?」 金茶のひとみを細め、その兄が苦笑まじりに問いかけた。 「よく噛んで食べろって、こないだオレに言ってたの、アンタじゃん」 呆れ顔の教え子が後を引きとる。機械仕掛けの護衛獣までもが、合わせてこくりと小さな頭をふってみせた。 「ピーピピッ、ピッ」 「あ、はは… そうだよね。ごめんね、ナップくん」 言って、笑ってはみたけれど。 重く冷たいものが、胸の底に沈んで居座っている。それこそ流しこんで忘れてしまうことなど、できそうになくて。 アティは、知らずため息をついていた。 「…とってもおいしかったです。ごちそうさまでした」 かたん、と椅子を引いて立ち上がる。 「え、せ、先生?」 あわてたようなナップの声に、少し笑んでみせて。 「ちょっと、外を歩いてきますね」 ぼんやりと、アティは足を進めていた。 突然出ていって、みんなをおどろかせてしまったでしょうか。 風の音、鳥の声を聞くともなく聞きながら、思いをめぐらせる。 「ああ、ダメですねえ、私って…」 声に出してみれば、なおさら気持ちが沈みこんだ。 「みんなに、心配なんて…かけたくないのに」 あてどなく歩くうちに、足が向かったのは、子供たちと出会った大蓮の池だった。 木々の間から、水の緑がちらちらと見えはじめる。森を抜けたとたん、目の前に広がった水面。その池のふちに、ひとりたたずむ小さな影を見て、アティは足を止めた。 「あ…」 思わず、声がもれる。はっと気づいたときにはすでに遅く。 「!!」 尻尾と耳を逆立てて、小さなオルフルがこちらを振り向いた。 「あの…」 そっと、声をかけた瞬間。はじかれたように、子供は蓮の葉の上へと飛び出した。 「ま、待って!?」 そのまま、すばらしい跳躍力でもって、流され、てんでばらばらになってしまった葉の上を渡っていく。 はらはらと見守る先で、子供は四肢を踏んばり、その背丈の数倍も先に浮かぶ、緑の小振りな葉へと飛んだ。 その足がついた瞬間。あまりのいきおいに耐えかねたのだろう、普段なら十分体重を支えたはずのそれが、がくんと沈み込む。 「…!?」 おどろいた表情のまま、子供は足をすべらせる。派手な水音が灰緑の水面を打った。水しぶきの影にそのまま小さな姿は飲みこまれ、見えなくなる。 水面が割れ、ちいさな手が、なにかを求めるように水面から突きでて、空をつかんでまた姿を消した。ぱしゃん、と水のはねる音。そのあと落ちた一瞬の静寂に、ざっと血の気が引く。 「セリカちゃん!」 叫び、アティは外套を脱ぎすてた。 普段、子供でも足がつくほどの池は、今やアティでも顔が出るかどうかの深さになっていた。 下手に歩こうとすれば、かえって泥に足を取られ、沈みこむ。 ばしゃばしゃと沈んでは浮かぶ少女を目指して、アティは必死に生ぬるい水をかいた。 焦るほどに、衣服が、髪が重くまとわりつく。思うように進まない。 もう、…少し! 手が、届いた。つかみかかられ共に沈まぬよう、後ろからもがく少女を抱きすくめる。 けれど。 「……ッ!」 少女はアティの腕のなか、かえって恐慌におちいり、全力でもって暴れだす。 幼いとはいえ、狼を近縁としたその力は強い。かかえた腕に噛みつかれ、ゆるんだ隙に、足で思いきり腹を蹴るようにして前方へと抜けだされる。 一瞬、意識が飛びかけた。水を吸いこみ、息苦しさに混乱する。 助けなくちゃ。あの子を助けなくちゃ…! 少女の立てる水音が小さくなって、アティは必死にそちらへともがいた。水が重い。目がかすむ。息が、続かない。 「おねがい…っ」 無我夢中で、アティは叫んだ。 「……セイレーヌ!」 その刹那。陽光を圧倒して、まぶしい翠の光がかがやいた。 ウォ――ン―――… 長く、尾を引く咆哮に、ヤッファは飛びおきた。 「きゃっ! どうかしたですか、シマシマさん!?」 ちょうど入り口にいた小妖精を払いのけて、庵から飛びだす。 それは、オルフルの鳴き声だった。 ウォウ―――… 来て、来て、ここに来て!! 幼いその声は、仲間を呼ぶ、悲痛な叫びだ。 遠いそれを聞き取ったのは、どうやら自分だけではなかったらしい。 駆けるうちにヤッファは、道の先を四つ足で飛ぶように走るオルフルの娘に追いつき、追い越した。 呼び声の先は、風雷の郷の林中。茂みから飛び出して、ヤッファは目の前にあったものに絶句した。しわくちゃに投げ捨てられた白い外套。翠玉の飾り止めが、はじけ飛んで泥に半ば埋まっている。 ウォ――ン… 池の中ほどにある蓮の葉で、小狼が喉をそらし、声もかれよと叫んだ。 「だれか、…だれか、助けてえっ!!」 「おい、そこの嬢ちゃん!」 はっと少女がヤッファを見た。 「モリビトさん!!」 くしゃりと泣きそうな顔で訴える。 「どうしよう… ニンゲンが、ニンゲンが…池に沈んじゃって…上がってこないようっ!!」 見やった水面は穏やかに凪いでいる。冗談よせよ、ともらした声はかすれていた。 「どこだ!?」 ひとつ、しゃくり上げる。 「わ、わかんない…ッ」 舌打ちして、ヤッファはそのまま水に飛びこんだ。 少女のいる葉から数尺はなれたあたり。 茎が折れ、斜めに沈んだ蓮の葉があった。見当をつけてその辺りまで泳ぎ寄り、頭から潜る。 畜生…! 常にもましてにごった水の中、目をこらし。ヤッファは歯がみした。 陽の下でなら目立つ紅い髪は、舞いあがる泥のなか、まるで視界に入らない。 焦りを押さえこんで首を巡らせた、そのとき。水中で、馴染んだ幻獣界の気配がふくれあがった。次の瞬間、泥水をつらぬき輝いた翠の光に、ヤッファは大きく水をかいた。 「くそッ! ……おい、アティ!」 岸まで引き上げた娘は、顔色をなくし、ぐったりとしていた。 濡れそぼった紅い髪がほおに張りつき、黒土の上にもつれて広がる。 ぐいと胸もとに押しこんだ指は、消えそうにかすかな鼓動を読み取った。吐息をたしかめようとヤッファはその口もとへ顔を近づけて、娘の真っ白なほおを、翠の燐光がぼんやりと包んでいることに気づく。 かまわず、娘の背をひざに抱えあげた。手荒に顔を上向かせ、のどをそらせる。 途端、びくん、と細いからだがふるえた。突き上げるように、むせかえる。 「…ッ、ゲホッ、コホ、コホンッ」 ヤッファはそのまま娘の身体をかたむけ、水を吐かせた。ひゅうっと、笛の音めいた呼気がもれる。それから、ひどく長い間があって。 「おい、しっかりしろ! ……おいッ!!」 娘の青白いまぶたが、蝶の羽のようにふるえた。うっすらと目を開ける。 「……ファ、さん?」 うるんだ藍色のひとみが、ぼんやりとまたたく。 かすかに口を開き、またふっと娘は意識を失った。ぐらりと仰け反った首を、ヤッファはとっさに片手で支える。 同時に、翠の光が一瞬強まり、そして消えた。 力をなくした細いからだを、乾いた草の上に横たえる。 爪の先で、はりついた髪を払いのけてやって、ヤッファは娘の顔をのぞきこんだ。 薄いまぶたに、静脈が青く透けて見える。真っ白で、生気に欠けてはいるものの、確かに息を吸って、吐いている。 「は……ッ」 つめていた呼気を吐き出す。安堵に、ヤッファはそのまま娘のとなり、湿った地面へ足を投げ出した。ぽたぽたと水のしたたるたてがみを、手荒にかき上げる。 「ったくよ… 寿命が縮んだぜ」 伸ばした指の先に、冷たく固い感触がふれた。なんとはなしに目を落とせば、そこには、翠の魔石がひとつ。 どうやら、娘の腰の小物入れからこぼれ落ちたらしい。 「こいつは……」 目をすがめ、ヤッファは石を拾いあげた。 「……モリビトさん」 おびえた声が、後ろからかかった。 「だいじょうぶ…?」 「ああ?」 ふり返れば、ぐしょぬれの小さな少女が、身をすくめて娘の様子を見つめていた。そのとなりには、困惑顔のオルフルの娘がいる。後から来た彼女に、無事岸まで連れもどされたらしい。 「あの、あのね、あたしが池に落ちて……そのニンゲンが叫んだら、翠色の人魚が出てきて」 たどたどしい口調でそこまで言って、少女はくしゃりと泣き顔になった。 「あたしを葉っぱの上までひっぱってったの。でも、それで池を見たら、もう沈んでて、人魚も消えちゃって、…ッ」 後は言葉にならなかった。伸ばした手で、ヤッファはしゃくりあげる少女の頭をなでてやる。 「心配すんなって。死にゃあしねえ。…見かけによらずしぶといからな、こいつはよ」 ゆるやかに呼吸する娘を見下ろし、ヤッファはかすかに笑った。 「セリカ…」 とまどった声で、オルフルの娘がつぶやいた。 「なあ、イリアの嬢ちゃんよ」 気を失った紅い髪の娘を見つめたまま、ヤッファはオルフルの娘を呼んだ。 「こいつが、なんだかわかるか?」 そっとヤッファの手元をのぞき込み、イリアは耳を伏せた。かすかに牙をむき、うなる。 「サモナイト石…!」 「そうだ。水の妖、セイレーヌの召喚石さ。…おまえの妹分を助けた人魚ってのはこいつのことだろうぜ」 神秘の石も、主の手を離れた今は光を失い、ただのガラス玉のようにも見える。 「……知ってるかい?」 ヤッファは、澄んだ翠の石を見つめつぶやいた。 「オレらみたいに固定化されてねえ、一時的に喚ばれただけの奴はよ。召喚主の意識が、魔力がとぎれればそのまま還っちまうもんだ…普通ならな」 それを手の中で転がして、ヤッファは目を細めた。 「この世界に現出するだけのマナもなかったってえのに、こいつは還っちゃいなかった」 何の加護もなき人の身が、息が止まったまま、どれほど生きていられるものか。 濁った水の中でヤッファを導いた妖は、その力でもって、意識のない彼女の命をつなげていたのだ。 オルフルの娘の、困惑が伝わってくる。ヤッファは苦笑した。 「そこまでしてあるじを護る召喚獣なんてな、そうそうお目にかかれるもんじゃねえんだぜ?」 「まったく、まったく、まったくもうっ!!」 小柄な少女は、金髪をふりふり叫んで、それからため息をついた。 「先生ってば…どうしてそう、無茶ばっかりしちゃうのよっ!」 「ご、ごめんなさい、ソノラ…」 寝台の上で、紅い髪の娘がしゅんと叱られている。 「あーもう、なんでそこで謝っちゃうかなあっ!!」 微妙に無体なことを言い、ソノラは地団駄を踏んだ。 「え、その、ごめんなさ… じゃなくて、だってほら、私の不手際で、みなさんに心配をかけちゃったわけですし」 ね? と小首をかしげ、ほほえむ相手に、ソノラは心底脱力した。 「みんなからも、なんとか言ってやってよぉ」 「そうねぇ…」 ため息混じりにつぶやいて、スカーレルが、寝台の娘へと身をかがめた。 「センセ? おねがいだからもうちょっと、自重ってものを覚えてちょうだいな」 とん、と指先でひたいに触れる。 「ヤッファがぐったりしたアナタを抱えてきたときには、そりゃあ大騒ぎだったのよ? カイルなんてねえ、おおきな図体してマグロみたいに青黒い顔でおろおろしちゃってもう、見てられなかったんだから」 「ッ、こら、スカーレルッ!?」 なに言ってやがる、と狼狽えた相手に、スカーレルはくすくすと笑いながら、徒っぽく身をよじった。ふり返る。 「あーらなあにぃ、もっと克明に説明してほしかったの? それがねえ、センセ、カイルったら」 「おい!?」 「『しっかりしてくれ!』 なーんて、センセの手をにぎっちゃったりなんかしちゃったりして〜」 「お、俺はだなあッ、ただ」 「ふたりとも……」 あきれた声で割って入ったのは、アティと同じく召喚を得手とする青年だ。 「少しは静かにしてください。今のアティさんには、休息がなにより必要なんですから」 カイルは不承不承の呈で、スカーレルは軽く手を挙げ口をつぐむ。 「事情を聞いたときは、ほんとうにおどろきましたよ」 苦笑まじりに、ヤードはアティを見つめた。 「印も切らず、詠唱もなしに召喚獣を喚びだすなんて…ずいぶんな無茶をしたものです。そんなことをすれば、昏倒するのも当然ですよ」 「あはは、あのときは夢中で……自分でも何がなんだか」 困ったように笑う娘を、召喚師の青年は静かにたしなめた。 「アティさん、貴方の悪い癖です。自分のことなら無理がきくからと、そんなことを続けていては、体が持ちませんよ。しばらくは、おとなしく養生していてください」 「え、でも…私、先生の仕事も」 「そうだよ!」 ありますし、と言いかけたことばを、教え子の声がさえぎった。 「先生は、いっつも無茶ばっかりしてるんだからさ」 「ナップくん…」 せいいっぱい寝台に身を乗りだして、少年はアティの顔をのぞきこんだ。焦げ茶色のひとみが、心配そうにかげっている。 「たまには、ゆっくり休んでてくれよな。青空学校なら、委員長のオレがめんどう見るし。オレの勉強は…えっと」 口ごもったところを、仲間たちが引きついだ。 「召喚術のことなら、私でもお役に立てますから」 「算術・測量に関してはまっかせなさーい!」 「武術の鍛錬は、俺が相手をしてやるさ」 「そうそう、女の子の扱いかたも、しっかり仕込んでおいてあげるわよ」 『いや、それはいいから。』 「あら、ざんねん」 |