急に静かになった部屋で、アティは一人くすくすと笑っていた。 「……寝こむのも、けっこういいものですねえ」 「おいおい、良いわけあるかよ」 扉の外からあきれたような声がして、アティはぱちくりと目をしばたかせた。 「セーンセ、お客さんよ」 かろやかなノックとともに、スカーレルが顔をのぞかせた。 「いまの声は、ええと……ヤッファさん?」 「それと、かわいい子が二人もいっしょにね」 にっこりと笑って、スカーレルは後ろに手招きをした。 「さ、お入りなさいな、お嬢さんたち」 アティは目を見開いた。 ユクレスの護人に背を押されるようにして、おずおずと入ってきたのはオルフルの少女たちだった。 「こんにちは、セリカちゃんに…イリアさん、でしたよね」 くっついて入り口に立ちつくしている二人に、アティは微笑みかけた。 「こんな格好で、ごめんなさい。風邪でも引いていないかなって、心配だったんですけど。元気そうでよかったです」 そろそろと、年下の娘が寝台へと歩みよる。 「おねえさん、どうして寝てるの? セリカのせいで、病気になっちゃったの?」 半泣きの顔でのぞきこまれ、アティは笑ってかぶりをふる。 「ちょっと疲れてるだけなんです。もうだいじょうぶですよ。心配してくれて、ありがとう」 「…よかったあ」 ほっとしたように言う少女の後ろから、もう一人の娘がつぶやいた。 「これ。よかったら」 少し決まり悪そうにそっぽをむいたまま。年かさの娘からぶっきらぼうに突きだされたのは、小振りな籐のかごだった。 「好きだって聞いたから」 アティは、起きあがった寝台の上から手を伸ばして、それを受けとった。甘い香りが、ふんわりと鼻をくすぐる。中をのぞいてみると、色鮮やかな果実がいくつかつめこまれていた。 「わあ、美味しそうですね。どうもありがとう」 思わず顔をほころばせると、娘は小さく首をふった。 「セリカを助けてくれて、ほんとうにありがとう…」 言いにくそうに、続ける。 「それから、ごめんなさい。あんたにケガをさせたわね」 「そんな…謝ってもらうようなことは、なんにもないですよ」 アティはかごを脇に置き、そうっと娘の手を取った。娘は一瞬体をこわばらせたが、小さく息を吐きだし力を抜いて、その手を預けた。 「あの後ヤッファさんにお薬をもらいましたし、…実は、他のけがと一緒に、まとめて癒しを受けたみたいなんです。ほら、もうきれいに治っちゃいました」 ね、とつないだ手を持ち上げて、娘に見せる。 「それは、そうかもしれないけど」 娘は鼻にしわを寄せた。 「元はと言えば、私がセリカちゃんをびっくりさせたのが悪いんですし」 アティは、小さく息を吸った。 「それに…私たちリィンバウムの軍人がしたことを考えれば、あなたが警戒していたのも…」 「…あんたは違うんでしょう?」 凛とした声が、アティの言葉をさえぎった。 「仲間を殺す召喚師はきらいだし、許さないわ」 ぴっと、娘は耳を立てた。かるくにらみつけられる。 「あたしは、あんたのことは信用するって決めたんだから。だから、そんな連中とあんたが同類みたいに言わないで!」 苛立った口調で言いつのられ、アティは思わず目をまるくした。 「え、ええと…その…ごめん、なさい」 「やれやれ、これじゃどっちが謝りにきてるんだかわかりゃしねえやな」 護人の、笑いまじりの声が割って入った。 「イリア、おまえな。さっきから、ほれ。爪が出てるぜ?」 「え?」 言って、娘はアティとつないだままの自らの手を見下ろした。 「ああっ! ご、ごめんなさい!」 あわてて手をほうり出される。赤く爪の痕が残っていた。 くつくつ笑って、ヤッファは言った。 「なあ、アティ。ひとつ教えてやるよ」 アティは、首をかしげてヤッファを見上げた。 「ファルゼンとこの天使のニイちゃんなら、魂のかがやきが見えるから、とでもぬかすところなんだろうが」 ばつの悪そうにしているオルフルの少女を、くいとあごで指す。 「オレらの世界じゃ、出会った相手が自分に害なす者か、そうじゃねえか…長々とおつきあいしてみてどうだった、なんてやってた日には命がいくつあったって足りやしねえ。…じゃあどうするんだ、って顔してるな?」 アティは、目をぱちぱちとまたたかせた。 「直感ってやつを、信じるのさ。それができないヤツは、メイトルパでは生きのこれねえ。反対にいやあ、一人前のヤツなら、だれでもその感覚を持ちあわせてる。強い弱いはあってもな」 ヤッファはアティへ手を伸ばした。なめらかなひたいに手を這わせ、その前髪をかき上げる。とまどう表情をかるく上向かせ、のぞきこんだ。 「オレらが相手を信じるってことは、自分の感覚を信じるってことさ。…だからな」 間近で、にやりと笑ってやる。 「あんたが自分を無駄におとしめるってのは、オレたちを疑うのと同じことなんだぜ?」 思いがけないことを言われた顔で、藍色の目がまんまるくなっている。ヤッファは、その頭をぽんとたたいて身をひいた。 「あんたは、あんたを信用してるオレたちを信じていりゃあ、それでいいのさ」 「あ… その」 アティはしばし口ごもってから、照れたように微笑んだ。小さくうなずく。 「……はい」 寝台の上で身を返し、イリアのほうへと目を合わせる。 「ごめんなさい、イリアさん。それから、…信じてくれて、ありがとう」 オルフルの娘は、横を向いたままつんと首を上げた。 「お礼なんて、いらないわよっ」 「イリア、顔赤いよ? なに怒っているの?」 きょとんとした顔で、セリカがイリアのそでを引く。 「お、怒ってなんかないってば! さっ、もう、帰るわよ! セリカ!」 声を荒げるそのほおは、かすかに赤く染まっていた。 「あはは、また遊びにきてくださいね」 のんびりとしたアティの声が、とどめだったらしい。 小さな妹分の手を引いて、イリアは扉から飛びだした。 「バイバイおねえさん、またねー」 セリカがふった手の先がちらりと見えて、あとは、二つの軽い足音が遠ざかっていった。 「…急に、静かになっちゃいましたね」 ふうっと、アティが息をついた。伏せたまぶたが、ほおにまつげの影を落とす。 幾分ヤッファは声を低くした。 「悪かったな。疲れてるとこ、騒がせちまってよ」 「いえ」 寝台の背にもたれかかったまま、アティはにっこりと笑った。 「今日は、ありがとうございました。ヤッファさん」 「オレはなにもしてねえさ。あんたが、あんたらしくふるまった結果ってやつだ。…まったく、よくやるもんだぜ」 知らず、最後はあきれと感嘆が入り混じる。寝台横に引いた椅子へと腰を落ちつけ、ヤッファは言いそえた。 「ああそれからな、礼を言うならまず、あんたが喚んだセイレーヌにだろうよ」 「…え?」 不思議そうに問いかえされて、ヤッファは小さく笑った。 「たしかに、あんたを池から引きあげたのはオレなんだがな。…あれがいなけりゃ、正直間にあわなかった」 かいつまんで、池での一幕を告げる。アティは驚きを隠せない様子で聞いていた。 「あんたにゃあ、ごちゃごちゃ説明するまでもないかもしれんがな。相当、無茶な話だと思うぜ。召喚主の魔力なしに何かをしでかすってのは」 召喚術を学ぶために軍人となったという彼女は、呆然とした呈でうなずく。 「どうして、そんな…」 もらされたつぶやきに、ヤッファは苦笑した。 「あのな…さっきも言ったろうがよ」 「え…?」 かすかに、アティは首をかしげた。 「獣ってのはな、おのれに向けられてる感情にゃあ聡いもんさ。隷属物と見なしていやがるのか、それとも個として尊重する気があるのか。…あんたに名を預けた幻獣で、力を貸すのを嫌がる手合いはそうそういねえだろうと思うぜ」 「でも、……」 困惑顔で、アティは口をつぐんだ。考えこむふうにうつむいて、しばし。 そのまま、ゆっくりと頭が垂れさがっていく。さらさらと、紅い髪が両脇に流れおちた。 「おい、アティ?」 声をかけると、びくりと夜着の背がゆれた。 「………っ」 あわてて沈みかけた半身を上げ、アティは顔を赤らめた。 「し、失礼しましたっ」 「あー…悪かったな」 ヤッファは頭をかいた。 「オレこそ、ちっとばかり長話が過ぎちまった」 あらためて見れば、ながながと衰弱した身を起こしていたせいだろう。いつにもましてアティの顔色は白くなっている。 「ったくよ、調子が悪いならそうと…」 言いながら、むしろ気づくのが遅れた自身へ呆れて、ヤッファは椅子から腰を上げた。 「あ、……あの」 ほそい声が上がった。こどものように、不安げな目がヤッファを見上げている。 とっさに見つめ返せば、そこにいるのは既に普段通りの彼女だった。申し訳なさそうに笑って、 「いえ、その、…私こそ長々と引きとめちゃって、ごめんなさい」 頭を下げられ、ヤッファは深いため息をついた。まわりを見まわし、脇机に置かれた果物かごに目をとめる。 ひょいと手に取り、椅子に座りなおす。 「……食うかい?」 アティはびっくりしたように目をおおきくして、それからこくこくとうなずいた。 「は、はいっ」 かごの中を物色しながら。 まるでこどものような娘だ、とヤッファは思う。 それも、欲しいものを欲しいと言えず、我慢ばかりしているこどもだ。 不器用すぎて、見ているこちらが泣きたくなる。 「しゃあねえなあ…」 「…ヤッファさん?」 苦笑まじりにつぶやけば、アティは少し気の引けたような顔をした。 「ああ、なんでもねえよ」 ヤッファは紅く熟したリグドの実に爪を立て、パカリと縦に割った。あらわれた白い果肉の、芯のあたりはうすい金色に透けていて、たっぷり蜜の入った上物だ。 「ほれ」 その片割れを、アティへ放ってやる。 「と、ととっ…」 危なっかしい手つきで受け止めて、アティは小さく息をついた。 横目に見ながら、ヤッファは手に残った片割れをかじり、ゆっくりとかみ砕いた。 冷たく、甘酸っぱい果汁がのどをすべり落ちる。 「なかなか悪くねえ味だぜ」 ならうように、アティも果実に口を付けた。小さくかじりつく。 一口、二口。しゃく、しゃくと音がして、おとなしく口の中の果実を食んでいる様子を、ヤッファはじっと見つめた。 こくりと白い喉が上下して、アティははにかむように笑った。 「美味しいです…」 「そいつぁよかった」 赤い実を両手に包んだまま、ずるずるとアティは寝台に沈みこんだ。長い髪がそれを追って、こどものように乱れる。 ヤッファは手を伸ばし、上掛けをその肩まで引きあげてやる。 「……いいからあんたは、もう寝てろ。ここにいてやるからよ」 すでにまどろみかけた顔で、ふにゃあとアティは笑った。 「ありがとうございます…」 その手から、こぼれ落ちかけた果実を取り上げる。アティは、ふわふわした声でつぶやいた。 「こういうの、…ちょっと、あこがれでした」 「あん?」 ヤッファは目をすがめた。 「具合の悪いとき… そばに、誰かがいてくれるって、うれしいですよね…」 「…そういうもんかね」 自分だったら、苦しいときこそ人目のあるのには耐えられない。 「ほんとですよ?」 顔に出ていたのだろうか、アティは困ったように微笑み、ささやいた。 「つらいのだって、痛いのだって…大好きな人にぎゅっとしてもらえばそれだけで、とっても楽になっちゃうんですから」 返答につまって、最後にヤッファは苦笑いをした。 「ああ、そうかい」 なんとなく、手を伸ばしてアティのひたいにふれる。少し熱があるようだった。 アティは心地よさそうに目を閉じた。 「ヤッファさんは、いいにおいがしますねえ…」 とろんとした、眠りかけの声でつぶやく。 「お日さまに干した、ぽかぽかのおふとんみたいなにおいがします」 それこそ日だまりの猫のような顔で、アティはほんわり頬をゆるめた。 ひかえめなノックの音が、一回。 「…あら」 返答せずにいると、ひょいとスカーレルが顔を出した。 「センセ、寝ちゃったの?」 ひそめた声に、ヤッファは無言でうなずいた。 するりと、音なくスカーレルがすべりこんでくる。片手に載せた盆を、静かに脇机においた。 そっとアティをのぞき込む。 「ふふ、…こどもみたいな寝顔しちゃって。安心しきってる、って感じよねえ」 ささやいて、スカーレルはヤッファへからかうような笑みを向けた。 「そうしてるとアナタたち、まるで親子みたいよ?」 「おいおい、オレが父親かよ」 ヤッファは苦笑いをした。 「あらあ、それじゃあご不満なわけ?」 察しの良い笑いかたをした相手に、皮肉をこめてヤッファはうそぶいた。 「そういうおまえこそ、どうなんだよ?」 「アタシ? アタシはもちろん、やさしい姉さん役よ。それ以上、この子をひっかきまわすつもりもないし」 その美貌に、暗い自嘲の影が落ちた。 「…ましてやこっちの事情に巻きこむ気もないわ」 言い終わったときには、まるで手品のようになにごともなかった顔で、スカーレルは微笑んでいた。茶化した口調で問いかえされる。 「だいたいヤッファ、アナタだって、アタシと似たようなものじゃあないの? 他人に深入りするつもりも、させるつもりだってないくせに」 ヤッファはゆっくりあごをかいた。 「まぁ、な… めんどくせえことなんてな、ないにこしたことはねえ。…確かにそうなんだがよ」 苦笑を載せて、ヤッファは眠る娘を見下ろした。 「こいつが、はいそうですかって放っておいてくれるようなヤツかどうか…おまえのほうがよく知ってるんじゃあねえのか」 スカーレルは、苦いものでも飲みこんだような渋い顔になった。 ため息まじりにヤッファはつぶやいた。 「逃げようもんならそれこそ、どこまでだって追っかけてきやがる」 紅をひいたくちびるが、ため息をひとつ。 「…言わないでよ」 そうして、不自然に明るくスカーレルは声を上げた。 「ああもう、アタシとしたことが! せっかくお茶を淹れたのに、すっかり冷めちゃってるじゃないのよ」 脇机に置かれたティーカップからは、湯気が消えて久しい。口惜しそうに続ける。 「最高級品の茶葉を奮発したのにっ。待ってて、淹れなおしてくるわ」 しなやかな身のこなしで、盆を取りあげる。 すばやく出て行ったスカーレルの後ろで、ぱたんと扉が閉まった。 アティは、ただおだやかに呼吸を繰りかえしている。 広がった甘い色の髪が、差しこんだ午後の陽に透けて、そのほおをやわらかく縁どっていた。 「……まったくよ。どうしたもんかね」 ひとりごち、ヤッファは手に収まったリグドの実に目を落とした。 枝から落ちる果実が自然であるように。 まるでそれが当たり前のような顔で、まっすぐに飛びこんでくる。 及び腰になるこちらのことなんて、ああ、まったくのおかまいなしだ。 まろやかな曲線を描くほおを、指先でたどってみる。 真実に目をふさいだ、かりそめの楽園へ転がりこんだ紅い果実。 抗いがたい魅力でもって胸をかき乱す、それを一口、口にした瞬間、世界全てが変わるのだ。 眠る彼女のくちびるからは、リグドの実の甘い香りがした。 fin. |