- 1 - 鏡に映る室内は明るく清潔で、それと同じくらいに無機質な印象が強い。 自分と、いまやたった一人となった部下が世話になっているこの集落には、その長たる女性を除けば生身の住人はただの一人もいないのだと聞く。自らが動きを止めれば、訪れるのは息をつめるほどの静寂だ。 鏡に映りこんだ自分は覇気がなく、くすんだ顔色はまるで病に伏した者のようで、否応なしに思いだされるのは己によく似た誰かの姿だ。 どれほどの間、そうして見つめあっていただろう。不意に鳴った合成音の呼び鈴に、アズリアは我に返った。 壁にはりついた薄緑のパネルを押せば、軽い音を立てて金属製の扉が開く。その外に立っていたのは紅い髪の娘だった。 「こんにちは、アズリア。お邪魔しますね」 目が合ったとたん、そのひとみがやわらかな笑みをたたえてほそめられる。 「……アティか。どうした。何かあったのか?」 「友人を訪ねるのに、特別な理由って必要ですか」 ほにゃりと気の抜けた顔で笑ってアティは部屋に入ってきた。どういう顔をしたものか一瞬迷った後、アズリアは深いため息をついた。 「おまえには、用もなくこんなところをほっつき歩いている暇などないはずだぞ。もう直にこの島から出ていくんだ。済ませておくべきこともあるだろうに」 「だって、ナップくんの試験が終わったらまたすぐ戻ってくるつもりですし、私の出立までにはまだ少し日もありますから。そういうアズリアこそ、どうなんです? なにか、やり残したこととかないんですか?」 気楽な口調で言った相手に苦笑する。 「明日発とうという人間が準備を済ませていないわけがあるまい? もともと大した荷もなかったし……残してゆくものたちの面倒も、おまえたちに頼むことができたからな」 部下たちの、そして、あの子の。はっきり口にしなかった言葉を娘は問いかえさなかった。 「もう、この島に、魂の安息を乱すものはありませんから。……静かに眠っていられますよ」 静かに、真摯に告げられた言葉にアズリアは笑みを向けた。 「ああ。心配などしていないさ」 アティが一瞬、痛みをこらえるような顔をする。 いぶかしく見つめた時にはアティの面から憂いは失せていた。見つめかえしてくるのはただ、いつもどおりのほほえみだ。 「……ねえ、アズリア。もう、やらなくちゃいけないこともないって言いましたよね?」 「あ? ……ああ、まあな」 「ならよかった」 にっこりと笑んで、アティがアズリアの手を取った。 「あなたと、行きたいところがあるんです」 そういえば昔からこうと決めたらゆずらない奴だった。 ぼんやりと思いながら、ずんずんと山道を進んでいく娘の後についてアズリアは歩いていた。 長く伸ばした紅い髪が、草木の緑の中、はっとするほどのあざやかさで揺れている。 ふいにその頭がふりかえった。 「もうちょっとですからねー、アズリア」 ふふふ、と邪気なく笑った相手をアズリアはねめつけた。 「いったいどこへ連れていく気だ」 「内緒です」 いたずらっぽい光をその目に宿し、アティはまた歩きだす。正面から吹きつけてきた風に、アズリアは思わずあごを上げた。 ――潮の香りがする。 坂道の頂上で立ちどまったアティに遅れること数歩、突然開けた視界にアズリアは言葉を失った。 丘の下から吹きあげる湿った海風が髪をすくいあげていく。 「………霧、か? いや……」 眼下に広がっていたのは、砂浜と岩礁からなる海岸だった。波打ち際の明るい翡翠色から、沖にかけて深い青へと色を変えていく水面。そこから、もうもうと白い湯気が立ちのぼっている。 「すごいでしょう?」 となりで、アティが楽しそうに笑う。 「聞いたことがある……これは、もしや、海底温泉か?」 「なあんだ、知ってたんですね、アズリア。私が初めてここに連れてきてもらったときは、そりゃあびっくりしたものですけど」 アズリアは、幾分がっかりした様子の娘に苦笑を返した。 「いや、充分驚いているぞ。そういうものがあるとは知っていたが、見たのはこれが初めてだ。……すごい眺めだな」 浜辺へとつづく道を、慣れた足取りでアティは降りていく。 「ここのひとたちは、イスアドラの温海って呼んでいるそうですよ……あ、このあたり、すべりやすいので気をつけて」 娘の背を追い、こどもの背丈ほどの高さのある岩棚を飛び降りる。隠し海岸のようになった小さな入り江にたどり着いて、アズリアは周囲を見まわした。 ごつごつした黒っぽい岩からなるなんの変哲もない岩浜だった。岩場の隅には、小舟の二、三艘なら楽に浮かべられそうな大きさの水場があり、白く湯気を上げている。そこから一筋、海へとそそぐ温水の流れを見るに、どうやら干潮の関係で取り残されたわけではなく、岩の亀裂からわき出ているものらしい。 「はい、到着です」 ふりかえって、にっこりと笑った相手にアズリアはしばし沈黙した。 「……ここに、何があるんだ?」 「えっ?」 きょとんとした顔で、アティは首をかしげた。 「さっきアズリアが自分で、温泉だって言ったじゃないですか」 「……だから?」 アティは、くだんの水場を指した。 「入るんですよ、もちろん」 「何だと!?」 「えーっと……たしかこのへんに置いておいたと思うんだけど。ああよかった、ありました」 言いながら、アティは岩陰から一抱えほどの荷物を取りあげた。 「これ、よかったら使ってくださいね」 呆気にとられているアズリアに、乾いた布を差しだしてくる。 思わず素直に受け取ってしまったアズリアを後目に荷のもとへもどった娘は、いきおいよく白い外套を脱いだ。丁寧にたたんで、今度は長靴を脱ぎかけたところで、いまだ呆然と見つめていたアズリアへふりかえる。 「あのう、アズリア?」 照れくさそうに、アティは続けた。 「あんまりじっと見ていないでくれますか? ……脱ぎにくいです」 「す、すまん」 あわててアズリアは顔を背けた。 「……って、いや、待て!」 我に返って向きなおれば、すでにそのワンピースの裾を引き上げている姿が目に入ってアズリアはふたたび首をねじ曲げた。動揺をおさえ、続ける。 「なんだってこんな野外で、しかも日も高いうちから湯を使わねばならんのだ。おまえには恥じらいというものがないのか!?」 「だいじょうぶですよ、めったに人の来るところじゃないし。もしも誰かが来たとしたって、ここならまず見えませんから」 おおらかな声に、ばさりと衣服を脱ぐ音がした。 「ここの温泉はあたたかいだけじゃなくて、打ち身や傷の治療にも効果があるそうなんです。だから、ちょうどいいかなって」 「いや、あのな……」 言いかけた言葉は、ぼしゃんと小さな水音にさえぎられた。それに、水をかきわける音が続く。 「アズリアー?」 のんきな声音で呼ばれて、アズリアは腹をくくった。 「……わかった。入ればいいんだろう。入れば」 岩陰に入ってあわただしく着衣を脱ぎ捨てる。渡された布を巻きつけて、アズリアは顔を出した。 紅い髪を結い上げている後姿が、湯気のなかにかすんで見える。 黒く濡れた岩の上に立つ。用心しいしい、そのつまさきを温水へとつっこんでみた。さほど熱くはない。 数歩進めば水かさは膝上ほどになって、アズリアは腰を下ろした。 風にあたって冷えた肌に、一瞬熱く感じられた湯が、徐々に心地よいあたたかさとなってしみこんでくる。嗅ぎなれた潮の香りも相まって、アズリアは、寄っていた眉根をわずかにゆるめた。 水音に目を上げれば、髪を結い終えたらしいアティがそばまで寄ってきていた。ぱしゃん、と軽い音を立てて、となりに座りこむ。 「お湯加減は、どう?」 ほほえみかけられて、アズリアは苦笑した。 「……悪くない」 よかった、とちいさく笑って、アティは海原へと顔を向ける。 同じように海を眺め、ふとアズリアは問うた。 「おまえも、以前ここに連れてきてもらったのだと言っていたな。その相手ともこうして湯浴みに来るのか? ………アティ?」 返らぬ応えにいぶかしく思って隣を見れば、アティはぽかんと口を開けてこちらを見つめていた。その顔が、見る見るうちに赤くなる。 「おい、だいじょうぶか?」 驚いて、その肩に手をかける。我に返ったように、アティが真っ赤な顔のままで声を上げた。 「なっ、あ、あのですねえ、アズリア!? まさかそんな、そんなことするわけないじゃないですかっ!」 「するわけないって……」 あまりの剣幕に一瞬呆然としてから、その相手が男であるという可能性に思いいたって、アズリアはつぶやいた。 「ああ、そうか……なるほど。いや、悪かったな。無粋なことを訊いた」 「ちょ、アズリア、なにか誤解してるでしょ!?」 泣きそうな顔で肩をゆすられ、思わずアズリアは吹きだした。 「そうか? いまのおまえの様子を見るかぎり、あながち誤解とも思えんのだが」 「違いますってば、ここには、みんなといっしょにピクニックに来たってだけで……」 「わかったわかった、しかし、別段隠すようなことでもあるまい? 学生時代、浮いた話のひとつも無かったおまえがなあ」 うう、とうめいてアティはうつむき、そのあごまで湯につかってしまった。ほつれた髪の一房が、溶けるように広がる。 「アズリアの意地悪……もう、いいです」 こどもじみた言葉に笑って、アズリアはまた水平線へと目をやった。ゆっくりと、湯のなかで足をのばす。 一条の海風がほてったほおを心地よく撫でていった。流れこんだ冷たい空気に湯気がもうもうと立ちのぼり、やわらかく肌にまとわりつく。体とあたたかな水との境が判然としなくなってくる感覚に、アズリアはぼんやりと身を任せた。 白く染まった視界のなか、どれほどそうしていただろうか。 「ねえ、アズリア……?」 静かに、湯気の向こうからとどいたささやきに、はっとアズリアは我に返った。 水の揺れる気配があって、気づけば、驚くほどそばにアティがいる。 「前に、言ってたよね? 戦っていれば、なにもかも忘れられて、楽だって」 やさしい声が、耳朶を打った。 「……アティ?」 とまどいとともに、アズリアはその名を呼んだ。 「でも、もう、みんな終わったんです。だから」 声はささやく。 「……がまんして、笑ってなくたって、いいんだよ?」 その表情を見さだめる間もなく、伸びてきた白い腕が、アズリアの首すじにかかる。アティのひたいが、ことんと肩に押しつけられた。 「感情を押しこめて、考えないようにしてたって……つらい、悲しい気持ちは、吐きだしてしまうまで、ずっと自分のなかにあるの」 むき出しのなめらかな肩が、かすかにふるえている。 「ここなら、だれも……私も、見てないから。塩っからいのは、潮風のせいだって思えばいい、だから……」 そのうなじを見おろして、アズリアはつぶやいた。 「……泣いているのは、おまえのほうだろう、アティ」 首にまわされた腕に、力がこもるのを感じた。 「あなたの、悲しいのが……」 小さく、アティがしゃくり上げる。 「わたしにまで、染みこんできちゃうんです。アズリア」 やさしい腕と、やわらかな身体。潮の香に混ざって、かすかに甘い匂いがした。 「あなたは、泣いていいんですよ。だって……こんなに、悲しいんだもの」 ぼんやりとアティを見おろしていた目の奥が、ふいに熱く痛んだ。 あわてて歯を食いしばっても間に合わず、ぽろりと熱い水滴がこぼれた。つうとほおを伝ったそれが、あごの先から落ちた。 まるで雨粒かなにかのように、ぽろり、ぽろりと、次から次へ涙はこぼれ落ちていく。 ほおを滑るその感触を、落ちるしずくを、呆然とアズリアは受け止めていた。 「……イスラ」 くちびるが、ふっと大切な名前を紡ぐ。 こらえきれず、アズリアは目の前の身体をかき抱いた。 熱い涙、相手のものか自らのそれであるのかも知れぬ嗚咽、重なる感情。まっ白な世界のなか、ふれ合うところから、一つに溶けていくような感覚。 まるで生まれたばかりの赤子のように、大声を上げて、アズリアは泣いていた。 (士朗さんによるイラストへのリンク / 別窓が開きます) |