「………今でも」 ぽつりとアティの声が落ちた。寄りそう彼女の紅い髪、白いうなじをアズリアは見下ろした。 「今でも、どうすればよかったんだろうって、考えるんです。……もう、考えたってどうにもならないことなのに」 かすれたささやき声で、アティは続けた。 「彼が、なにを望んで、どうしてあんなやり方を選んでしまったのか……私がいくら望んでも、絶対に、知ることなんてできないから……っ」 「……アティ」 アズリアに身を寄せたやわらかな身体がふるえている。 「あなたは、イスラを、愛してたのに。私も、彼に死んでほしく、なんか……なかったのに」 彼女をなだめるように、そっと、アズリアはその背を抱いた。 「世界のどこにも居場所がないなんて……そんなふうに思いこんだまま、逝ってしまうなんて、どうして……っ!」 「……なあ、アティ」 幼子のように腕のなかでふるえている彼女に、アズリアは静かに話しかけた。 「どれほど想っていようとも、伝わらなければ……相手にとっては、それはないのと同じことなんだ」 「でもあなたはたしかに……っ」 涙をいっぱいにためたひとみが、アズリアを見つめた。 「……そうだな。私は、イスラを愛していた」 かすかに仰向いて、アズリアは、白いばかりの虚空を見あげた。 さんざん泣いてわめいた後だからか。ひどく、心は静かだった。 そっと目を閉じる。自らのうちをのぞきこむ思いで、アズリアはつぶやいた。 「だが……私に、あの子の言葉をほんとうに理解しようとしたことが、ただの一度でもあっただろうか」 「アズリア?」 困惑した声に、アズリアはかすかに苦笑してみせた。 「どうして、それほどかたくなに、すべてを拒絶するのかと……どうして、私の思いを、わかってくれようとはしないのかと。自分の望むようにならないあの子に悲しむばかりで。自分の知っていた、やさしいあの子に戻ってほしいと……ねがうばかりで」 吐息にまぎらせるように、アズリアはつぶやいた。 「目の前にいる、現実のあの子を私は否定したんだ」 「でも、アズリア、それは……っ!」 泣きそうな、いや、今も泣いているのか。悲鳴じみた友人の声にアズリアは視線を戻した。 「そうだな。イスラの行いは、否定されこそすれ、容認しうるようなものではなかった。……だがな、アティ。おまえは、だれからも期待されず、望まれず、必要とされない存在であることに、耐えることができると思うか?」 「え……」 そんなことは考えたこともないのだろう友人に、アズリアはわずかな痛みとともにほほえんだ。 「……少なくとも、私には耐えられそうもない。それに耐えることができないからこそ、人は、努力を重ね、他者から期待される姿に近づいていこうとするのだろうと、私は思う」 アズリアは、かるく目を閉じた。 「だがな、それは、病魔の呪いにむしばまれるあの子にとっては、初めから不可能なことだったんだ……」 (ぼくは、いらないこどもなのかな) まだ幼い弟の声がささやく。 (やっぱり、この世界に、僕のいる場所なんて、ない、よね……) 最期に、笑って泣いたあの子の叫びを、もうずっと前から自分は知っていたのではなかったか。 「自分が他者から必要とされないのではなく、自分が他者を必要としていないのだと……そう思いこみ、すべてを切り捨てていくことで、あの子は自分自身を守ろうとした。だから、そう信じるための根拠である絶対的な力が奪われたとき……もう、あの子は、自分自身を破壊してしまうこと以外に、必要とされない自分を否定する術を持たなかったのだろう」 「そんなのって、ないです……おかしいですよ……ッ」 悲しみととまどいをにじませ、ふるえるアティの声にアズリアはうすく笑った。 「ああ、そうだな。だが、それでも、あれがあの子の出した結論で……そして、そこまであの子を追いつめてしまったのは、あの子のまわりの世界と、私自身だった」 自嘲に、くちびるをゆがめる。 「私の父は、跡取りにふさわしい子供でなくば価値がないと思っていたような節があってな。私はイスラがそんな目で見られていることがつらかった。だが……病に苦しむイスラに、きれいでやさしい子でいつづけてくれと願うことで、私は父と同じことをイスラに強いていたんだ。やさしいがまん強いこどもでなくても、ましてや、立派な軍人である必要もない。……ただそこに、いてくれるだけでよかったはずなのに」 やさしいイスラに戻って、という言葉が、どれほどあの子を傷つけていただろう? 「今になって、やっとわかった。いつのまにか、私は、自分のなかに作りあげたイスラを愛していたんだ」 「そんなことありません! アズリアは……」 「……アティ」 かたくなにかぶりを振る友人を、アズリアはやさしくさえぎった。 「おまえはそうやって否定するが、おまえが知る私もまた、おまえのなかで作られた私でしかない。……責めているわけじゃないんだ。己という器を通して、他者を、世界を認識している以上……結局、だれもがそのようなやり方しか持ち得ないのかもしれないな」 「アズリア……」 途方にくれた目で見上げてくる娘へ、アズリアはほほえんだ。 「だがたとえそうであったとしても、私は、人とつながることを投げ出そうとは思わない。たとえ不完全であっても、わかりあえたと思える瞬間がある。……もとはといえば、おまえが教えてくれたことなんだぞ」 力でねじふせようとした自分に、ずっと伸ばされつづけた剣を持たない手。あきらめない、と呆れるほどまっすぐに見つめてきたひとみ。 今は迷いに握りこまれたその手をつつみ、涙でゆれるひとみをのぞきこむ。 「私は一度間違えた。己の作り上げた愛すべきイスラの姿を壊したくなくて、見ようと思えば、知ろうと思えば、わかったはずのものから目をそらしてきた代償に、イスラそのものを失ったんだ」 伸ばした指先で、流れる涙をぬぐってやる。 「だがおまえはずっと、自分が信じたことを貫き、持ちうるすべての力を尽くしてきたのだろう。それで、どうして己を責めることがある」 アティの泣き顔が、くしゃりとくずれてかすかな笑顔になった。 「……ごめんなさい、アズリア。私のほうが、なぐさめてもらっちゃってますね。泣いていいとか言っておいて、恥ずかしいです」 「おまえこそ、泣きたい時は、遠慮せずに泣けばいい。苦しい時には、頼ればいいんだ。……私のほかにも、そう言ってくるやつがいるんじゃないのか?」 声音にわずかに笑みを含ませれば、アティは顔を赤らめた。 「……からかわないでください、アズリア」 うっすらと上気したアティの肌にはいくつもの傷跡が浮かび上がっている。それは、彼女がその目に触れる限りの危難を、すべて己ひとりの身に引き受けようとしてきた結果だ。 彼女とイスラは、ある一面においてとてもよく似ていたのだと、そう思う。 幼いころ、イスラは、己が苦しむただなかでも他者の痛みを気にかけるこどもだった。まわりの者の声が聞こえすぎて、自分こそが他者の負の感情を生みだす原因なのだと気づいた時、その事実から逃れるためにすべてから逃げだし、最後には己を壊してしまった弟と、まわりの者の痛みが己のそれよりも強くて、すべてを危難から遠ざけ、その身を犠牲としても守ろうとしたアティ。 けれど、おまえ一人だけですべての痛みを背負わねばならないだとか、そうして己が壊れてしまってもそれでいいのだなんて、もう思ってるわけじゃないだろう? 「だから……もう、おまえたちは似ていない」 「えっ?」 まだ赤い目で不思議そうに見てくる彼女に、アズリアはほんの少しの寂しさをこめてほほえんだ。 「幸せになってくれ。イスラの分まで」 出立の日は、すばらしい晴天だった。 修理を終えたジャキーニたちの船が停泊する湾には、乾いた潮風と、さえぎるものなく降りそそぐ日ざしが満ちている。 そうして、その風に長い髪をなびかせてじっと見つめてくる友人の海の色をしたひとみを、穏やかな気持ちでアズリアは見つめていた。 「どうしても、行っちゃうんですね。アズリア」 アティの顔をまっすぐに見つめ返して笑う。 「ああ。私には、やるべきことがあるからな。……なんて顔してるんだ、おまえは」 「けっきょく私は、あなたが軍に戻るための手助けなんて、なにもすることができませんでした。このまま帰還しても、あなたは……」 その憂慮にアズリアは苦笑した。 「剣を奪還できず、部下のほとんどを失い……こんな結果となっては、軍法会議は免れないだろうな。士官としては、栄達の道を立たれたも同然だ。……だが私にとって、それはもう大した問題じゃない」 弟のため、家名のため、女と見くびる輩を見返すため。たくさんの理由の中にいつしか埋もれていたのは、己自身の望みだ。 すうと大きく息を吸った。噛みしめるように、告げる。 「もう一度、最初からやりなおしたいんだ。力を持たぬ者の代わりに剣を取り、その身を守る盾となる。今度こそ、私がそうありたいと目指していた軍人として生きるために……私は、戻ろうと思う」 アティが、真剣なまなざしで見つめてくる。 「罪滅ぼしだとか、義務だからとか、そういうことじゃなくて……それが、あなたの望みなんですね」 「そうだ」 迷いなく言い切れる己を、そしてそのことを思い出させてくれた友人を、誇りに思う。 「……わかりました」 ほんの少しの沈黙のあと。わずかにふるえる声で明るくアティは言った。 「それなら、いっしょにいてほしいだなんて私のわがままで、あなたを引きとめたりなんて……できないですね」 意外な言葉に、アズリアは娘の顔を見つめた。 「アティ……」 「待っとくれやす、あんさん!」 突然、入り江に高い叫びが響いた。声の方向へ目を向けると、追いすがる弟分をふりきり荒々しく砂を蹴って、赤毛の海賊がこちらへ歩いてくるところだった。 「ええですか、うちがおらへんようになっても、好き嫌いせんと、野菜も、魚もちゃんと食べて、それから、それから……」 「ええい、わかっとるわい、おまえもええ加減しつこいんじゃ!! ……おう、隊長さん、もう出るからのう!」 海賊は口ひげの奥でかすれる声をごまかすように張り上げて、海上に泊めた船へと向かう小舟に飛び乗った。涙で顔をぐしゃぐしゃにしたオウキーニが、引き留めかけた手を握りこみ、その背を見守る。 「ああ、行かなくては。……達者でな。アティ」 アティは、わずかににじんだ涙をふりはらって笑顔になった。 「あなたも。アズリア」 まぶしい思いで、アズリアはアティを見つめかえす。 彼女の笑顔が好きだった。 競いつづけた士官学校時代。退役する彼女を憤りのままになじった日。そうしてこの島で剣をめぐり争っていたころ。もどかしい苛立ちばかりが先に立って、ずっと押しこめてきた思いを、今なら素直に認めることができる。 おまえのそばで生きていきたいと思う気持ちが、確かにあった。 それでも、この楽園の外にこそ、己が叶えたいと望む夢がある。 ――だから、私は行こう。おまえの守るやさしい世界から、己の戦場へ。 「船が、出るぞおおぉぉ!」 白い海鳥が舞う。 島を去る私がただひとつだけこの地に願えるならば――この小さな楽園で、おまえがずっと笑っているように。 私の愛した、あの笑顔で。 願いの破られる日が来ないことを、私はかたく信じている。 fin. |