「ああ、ごめんよ」 派閥の回廊を行く途中。訓練室の中から笑いを含んだ声が聞こえて、足を止めた。 「手元が狂ってしまってね。でもまあ、こんなものでも魔力を帯びた代物だ、幾らか足しになるのじゃないか? 成り上がりのきみになら」 なあ、と同意を求める声に、嘲笑混じりの賛同がいくつも重なる。 聞こえた単語に、とっさに部屋へ飛び込んでいた。 「……ここでいったい、なにをしている!?」 目に入ったのは、頭からずぶぬれの弟弟子と、それを囲んだ召喚師見習いたち。 「あ、…いえ、これは、その」 「召喚術で、飲料水を喚び出す方法を…教えてやっていて」 決まり悪そうに、少年たちは目を見合わせる。その中で一人が指した先、少し離れた円卓には、お飾りのように水瓶が据え付けられていた。 「ちょっと制御に失敗して、たまたま彼に」 ぽつんと立ちつくしていた彼が、ふいにその目をきつく閉じた。憤りか、それとも緊張にか、にぎられたこぶしがかたかたとふるえている。 「……この程度の制御もできない腕前とは、…さぞかしご立派な、お家柄なんだろうな」 かすかにその声はかすれていた。 少年の一人が、かっと頬を染めた。 「な、…手加減してやったのもわからないくせに」 「ちょっと上に、目を掛けられてるからって…!」 途端に色めき立った少年たちの囲いから、とっさに弟弟子を引っぱり出した。引き寄せた背中は硬くこわばっていて、じわりと自分の法衣へも水がしみこむ。 喚び出されたそれは、氷のように冷たかった。ゆっくりと見回せば、少年たちはとたんに落ちつきをなくし、けれどもそしらぬふりをする。 「……来なさい。早く着替えないと、風邪を引く」 平静を装った目のその奥に、苛立ちとかすかな怯えとをちらつかせ、彼は自分を見上げた。 「さあ」 うながした腕を、ふりはらって彼は歩き出した。 少年は、ぐったりと粗末な寝台に沈みこんでいる。 赤くそのほおを染めるのはランプの炎ばかりでなく、熱のこもった息の下、時折苦しげな呻きが上がった。 薬はもう効いてくる頃合いだが、せめて呼吸が落ちつくまで。 思いながら、横に置いた椅子で研究書の頁を繰る。彼が目を覚ますまでには辞するつもりだった。心配している自分のまなざしを、彼は喜ばない。 こどもと言っていいほど年若い自分の弟弟子の、虐げられる姿を見るのは、そう珍しいことではなかった。 家名を持たない。そのことを理由に、小さな彼は差別を受けている。それは主に同輩たちの仕打ちであり、時には、教官からのものでさえあった。 眠りをさまたげぬよう気遣いながら、指を伸ばした。汗で額に張り付いた、短い金の髪をそっとかきあげる。 前髪の下、あらわになったうすい傷の跡を、そっとなぞった。 一度は召喚術の稽古と称し、傷を負わせられたことさえある。 彼はその時でさえ医務室へは行きたがらず、慣れない手当てをしたのは自分だった。 自分だけが。 この閉ざされた象牙の塔の中、彼の味方であり続けるのだと、信じていた。 「お引き取りくだされ、フリップ殿」 屋敷の明るい玄関ホールに、告げた声は、はっきりとひびいた。 なかば呆然としていた相手の顔が、ぐいとゆがんだ。失態に気づいたゆえの焦りだろうか、格下から受けた命令への屈辱だろうか。 床に倒れこんだ愛弟子を背にかばい、ラウルは招かざる客の前へと進み出た。 「そうすれば、今回のことは、わし一人の胸にとどめておきますゆえ…」 ……それとも? 浮かんだ可能性、あまりにも己に都合のよいそれに、ラウルは内心、自嘲した。 視界のはしで、駆け寄ったその弟弟子に支えられ、愛弟子がようよう立ち上がるのを見る。憎悪のまなざしを、ラウルと同じ先へと投げて、けれど来訪者は身を返した。 あわただしく、その高い靴音が消えたそのとたん、緊張の糸が切れたふうにネスティが大声で泣き出した。その後ろで、もう一人の愛弟子が呆気にとられた顔をしている。彼に対して、つねに庇護者たろうとしたネスティの、こんな一面を見るのは初めてだったのかもしれない。 けれど、自分は知っていた。 「ネスティや、…辛い思いをさせて、すまんかったのう」 苦い思いを押し込め、胸に引き寄せた愛弟子の後ろ頭を、ゆっくりとなでる。 「もう、無理はせんでいい。…おまえは、まだまだほんのこどもなのじゃから。少なくとも、わしにとってはのう」 細い黒髪を梳き、そのまま降ろした手で背中をぽんぽんとたたく。 「と、…さん、義父さん……ッ」 上がった体温と、しがみついてくる腕に、愛おしむ気持ちと同じだけの罪の意識とを覚えながら、ラウルは、息子の背中を、何度もなでた。 ……知っていたのだ。 「ほんとうに、…すまんかった、ネスティ…」 ネスティが、フリップを恐れていたことは。 薬の管理者たる彼と、もしかするとなにかあったのでは、…そう考えたことがないと言えば嘘になる。 けれども、自分は見ないふりをした。 かつての弟弟子を、信じてやりたかった。…彼の味方でいたかったのだ。最後まで。 「………ほんとうに、すまない」 呟きの、向かう先はどちらだったか。もう自分でもわからなかった。 派閥の中庭に満ちる空気は、残酷なまでに明るく、おだやかだった。 澄んだ日射しが、すべてを明らかに照らしだしている。 運命に愛されたものたちの強さと、美しさを。……そして。 フリップは、低く、ひきつった笑いをもらした。 自分の卑小な影を。 自分を見捨てた兄弟子の、哀しい目を。 「馬鹿な真似は止すんだ、フリップ…!!」 「……おまえも」 かつての兄弟子、そのいさめに返して叫んだ声は無様に割れていた。 「おまえもそうだ、ラウルッ!!」 見たくもないすべてを閉め出すため、かたく目を閉じる。 「たかが師範の分際で……どうして、おまえばかりが総帥に信頼される!!」 一瞬、息を飲む気配があった。 「フリップ、…おまえ…」 そんな声で、私を呼ぶな。 おどろきと悲しみと、わずかな哀れみと。 ああ、いまさらおまえは昔のように、…まるで、私のことを案じているかのように。 そんなはずはない、わかっているんだ、ずっと、影で笑っていたのだろう? 成り上がりが、無様にあがいているものだと。必死に出自を隠して、反動のようにおまえの愛弟子を…表向き、「成り上がり」だったクレスメントの末裔をいたぶる私の姿は、さぞや滑稽であったろう。 ――――認めてほしかった。 認めてほしかったのに。 優秀だった、兄弟子に。おだやかでだれにでも好かれて、こんな成り上がりの面倒を見てくれていた。そうだ、だれより彼に認めてほしかった。けれど。 家名を、地位を得ても、ラウルの態度は変わらなかった。 ただ、哀しそうな目で自分を見た。 だれにも認められる血統と能力を持つ彼にとっては、自分の少々の努力も栄達も、大したものではなかったのだ。 そうと気づいてしまえば、近くになどいられなかった。顔を合わせることも少なくなり、自分は、やっと「フリップ・グレイメン」で在りうるようになったのに。 ゆっくりと、フリップはまぶたを引きあげた。 ――――そのころになって、ラウルは、二人の弟子をとったのだ。 その、ラウルの弟子たちが、驚きに目を見開いてこちらを見ている。 目が合って、フリップはゆっくりと笑った。 生まれながらにして選ばれていた、特別なこどもたち。 それゆえに、ラウルに愛され、大切にされたこどもたち。 「そう、そいつらを殺すことができるのならば……」 口の端を、意志でもって笑いの形にゆがめる。ほおになぜか、冷たい感触がすべった。 「私は…悪魔にだって、魂を売ってやる!!!」 「なあ、ネス、…大丈夫か?」 「僕は大したことないさ…ああ、君こそ…傷だらけじゃないか」 心配そうな声に、やさしく応じる言葉。 「かすり傷ばっかだよ、こんなん。…って、わああっ!」 突然くずおれたネスティの身体を、慌てた手つきでマグナが支えた。 「ネス、…ネス!?」 マグナが一気に蒼白になる。 「……落ちつきなさい、マグナや。気を失っただけじゃろうて」 愛弟子の背を叩いてなだめながら、ラウルはネスティの顔をのぞき込んだ。 傍で見ると、真昼の白い日射しが、ネスティの青白い肌をなおさらあやうく見せる。 「……これは、しばらく休ませてやったほうがよさそうじゃの」 ラウルは眉をひそめた。 「マグナや、どこか、…そうじゃな、わしの部屋まで連れていってやってくれんか」 「は、はいっ!! あ、あの、でも、ラウル師範…」 派閥の庭は、騒ぎに気づいた者、よそ者の集団に指さす者たちでおだやかならぬ様相を呈してきていた。 困った顔で自分をふり返ったマグナに、ラウルは少し笑った。 「なあに、後はわしらにまかせておけばいい。おまえは、おまえたちのことだけ心配しておればよいのじゃよ」 「あ…ありがとうございます、師範っ!!」 ぱっと顔を輝かせ、マグナはネスティを肩にかつぎ上げた。飛ぶように走っていく彼の上で、苦しげにネスティがうめいたが、そこまで気は回らないらしい。ラウルは、愛弟子たちの後ろ姿を見送った。 「……ラウル、きみもだよ」 後ろからかかった幼い声に、ラウルはゆっくりと振り返った。 「…総帥?」 蒼の派閥の長の、深い蒼の瞳が、幾分の沈鬱さを込めて見上げていた。細い腕が、退去をうながすようにつと宙をなぐ。 「きみこそ、疲れているだろう? 下がってくれて、かまわないよ」 「いえ、私は…」 首を振りかけて、わずかに眩暈を覚える。目を背けていたものが、視界のすみを確かにかすめていた。 「……私は」 ふらりと踏み出したラウルに、総帥から再びの声はかからなかった。 一歩ずつ、のろのろと。 その歩みの先には、忘れ去られたようにうち捨てられた、弟弟子の身体がある。 「……フリップ?」 呼びかける声が、かすかにふるえた。 うつぶせに倒れた身体の背に、暗殺者の短剣が深々と刺さっている。 その力を失った手からこぼれかけた翠の石が、陽光にちかりときらめくのが見えた。 覚えている。 ずぶぬれになって熱を出し、寝台に横たわる彼の手を、そっと握った。 眠りの中から、すがるように握りかえしたその指の帯びる熱さが、切なくて。 けれどひどく胸があたたかくなったのを、覚えている。 ああ。いつのまにこんな遠くまで、来てしまったのだろう。 ラウルは、ゆっくりと膝をついた。 もう目覚めることのない弟弟子の、そのそばに。 投げだされた、青白い手を取る。 ―――――もう、熱のかけらも残っていなかった。 fin. |