■  埋み火  ■



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「外、片づけて店じまいの札かけてきたよ、フェアさん」
 扉の開く音と重なって、店内に少年の明るい声が響いた。冷たい夜風が一陣、開け放たれた店の入り口から食堂を通って露台へ吹き抜けていく。
「ありがと、ルシアン。寒かったでしょ? 待ってて、いま熱いお茶を淹れるから」
 せわしなく扉を閉めた背中に、フェアが声をかける。冷えた外気にさらされて赤らんだルシアンの頬にぱっと喜色が浮かんだ。
「わあ、ありがとう。それじゃあ……」
「あっ、ちょっとあんただけずるいわよ! あたしも欲しい!」
 その姉が、手にしていたモップを放り出して勢いよく手を上げた。
「はいはい、わかってますって」
 やれやれと言いたげな笑みで、フェアがぱたんと帳簿を閉じる。立ち上がろうとしたその肩に、セイロンは手を伸ばした。
「座っておれ、店主殿。我が淹れよう」
 ぐいと押さえて座り直させる。こちらを見あげて、フェアが驚いた顔をした。
「いいの?」
「今日はいつにもまして客の入りが多かったからな。そなたも、少しくらいは休むがよかろう」
「……それじゃ、お願いしようかな。セイロン、お茶淹れるの上手いし」
「うむ、素直でよいよい。では、茶葉と湯をもらうぞ」
 くすぐったそうな笑顔になったフェアに、セイロンは笑って厨房へ足を向けた。
 沸かしてあった湯を茶器にそそいで温めていると、カウンターにひじをのせたリシェルが感慨深げに手もとをのぞきこんでくる。
「それにしてもさ、ずいぶん腰が軽くなったっていうか…慣れたわよねえ、あんたも。手伝いを始めてから、ええっと……二ヶ月経ってないと思うんだけど」
「本当、もうセイロンさんがいなかったころが思い出せないくらいだよね」
 やわらかく、ルシアンが後を引き取る。人数分の茶を淹れて盆に載せ、セイロンは食堂へと引き返した。
「我にしてみれば、はやそれほどの時が経っておったかという感もあるがな。なにしろ、御子殿とともに世話になっておったのも同じほどの間であった」
 リシェルが驚いたようにくるりとひとみをまわした。
「えーっ、そうだったっけ。もっともっと、長かったような気がしてたなあ、あのころは」
 それぞれに茶を満たした器を渡してやってから、自分の分を手に、セイロンも手近な椅子の一つを引いて腰かける。
「しかし、そう考えてみるとだ……どうにも、我には不思議でならぬことがあるのだが」
 けっきょく仕事を手放せず、帳簿とにらめっこしているフェアがあからさまな生返事をする。
「うーん?」
「二月もの間、一応は妙齢の娘御である店主殿の一人住まいに我が居候をしておることについて、何故誰も苦言を呈しに来ぬのだろうかとな」
「……へっ?」
 フェアが帳簿から顔を上げ、目をぱちくりさせた。そのとなりで茶をすすっていた姉弟も、きょとんとした顔でこちらを向く。
「そりゃあ……」
「だって、他でもないセイロンさんですし」
「考えたこともなかったっていうか」
「ねえ」
 顔を見合わせうなずきあった幼なじみ三人組に、セイロンは思わず苦笑した。
「……どういう意味かね、それは?」
 ルシアンがあわてた様子で言いつのる。
「ええとその……セイロンさんってすごく大人で、落ちついてるじゃないですか」
「ぶっちゃけ、女の子とどうこうなるような甲斐性なさそうだし。ましてや、出るべきとこが引っこんでるお子さま相手じゃねえ」
 カウンターから生食用アロットのスティックをつまんであっさりと続けたリシェルに、フェアが顔を引きつらせる。
「……ちょっとリシェル。その言い方は傷つくんですけど! だれがまな板の幼児体型ですってえ!?」
「いや、そういう問題では店主殿、……聞いておらぬな」
 そのまま元の話題そっちのけのじゃれあいに発展した三人を見やって、セイロンは深いため息をついた。
 その騒ぎにまぎれて、からんと店の扉にかけた鐘がなった。
「おーい、フェア。邪魔するぞ」
 のんびりとした声とともに扉が開く。案内を待たず入ってきた黒髪の青年に、口論を打ち止めしたフェアが立ち上がった。
「あれ、グラッド兄ちゃん。いま見回り終わったの? ずいぶん遅かったんだね」
「おう。中央通りでな、店じまいだってのにくだ巻いて帰らない酔っ払いの相手してたら、行きつけの店もみんな閉まる時間になっちまっててさ……」
「みなまで言わない! 簡単なものでよければ作るから、食べてってよ」
「すまん、助かる」
 にっこり笑んで厨房に駆けていったフェアの背を見送ってから、グラッドが残りの二人へとふり返った。
「それはそうとだな……おまえら、まだここにいたのかよ。今何時だと思ってんだ」
「えええぇ、ちょっと頭固すぎよぉグラッドさん、盛り場で遊んでるわけじゃなし」
「あのなあ、こんな町外れからじゃ帰りの道中が危ないだろうが。飯を食わせてもらったら俺が送ってってやるから」
「だーいじょうぶだって。変なのがからんできたってエレキメデスで一発返り討ちに……」
 ロッドを振る仕草をしてみせたリシェルに、ルシアンがため息をついた。
「もう、ねえさんってば! 街中で召喚術なんか使っていいわけないでしょ。すみません、グラッドさん。お言葉に甘えてもいいですか?」
「ああ、こっちも帰りついでだし、そんなかしこまらなくていいんだぞ」
 頭を下げたルシアンに、グラッドが気のいい笑顔を浮かべる。
「いえ、助かります。すぐ荷物をまとめちゃいますから……ほら、ねえさんもそのへんの食べかけとか片づけて!」
「ああもう、わかったわよう」
 腰の重い様子のリシェルがしぶしぶ動き出す。さらにルシアンがそれを追い立てるようにして、姉弟二人はそろって食堂を出て行った。
 軽く息をついたグラッドに、思わずセイロンは忍び笑いをもらした。
「いつもながら、そなたもご苦労なことだな」
「よう、セイロン」
 グラッドは頭をかきかき、セイロンのいる卓へと歩み寄ってきた。
「それを言うなら、あんたも毎日フェアにこきつかわれてるんじゃないのか? 最近のこの店の繁盛ぶりは、本当に大したもんだよ。……ま、俺のほうは、ガキどもの面倒を見るのも駐在軍人の仕事のうちってやつだしな」
「そういうものかね」
「仕事っていうより、兄貴分としてってほうが正しいかもしれないけどなあ」
 壁際に無造作に槍を立てかけたグラッドが、卓の向かいに腰を下ろす。くつろいだその横顔を眺めながら、ふと思い立ってセイロンは口を開いた。
「おお、そうだ。それでは、店主殿らの兄上役としてのそなたの意見を聞かせてはくれぬか」
「ん? 何かあったのか」
「幸い、何も起こる予定はないのだがね。それでも、我としては如何なものかと思っておるのだよ」
 ため息混じりに、先ほどのリシェルたちとのやり取りを聞かせてやる。
「……押しかけておいて何をと言われれば返す言葉もないのだが、なんというかな……店主殿も年ごろであるからして、まわりももう少しそれらしく心配してやるべきではないのかと思うのだよ」
「……なるほどな」
 真面目な顔で身を乗り出していたグラッドの表情が、途中で苦笑いになった。
「あんたの言いたいことはわからんでもないが……どっちかっていうと、俺もあいつらの言うことに賛成かもなあ」
「ほう」
「ああいや、あんたに甲斐性がないとか、そういうことを言ってるわけじゃないぞ。それこそ、そんなことを真面目に考えてくれてるようなところが信頼できるって意味でさ。正直俺は、あんたが戻ってきてくれてよかったと思ってるよ」
「それはまた、どうしてかね?」
 問えば、グラッドが難しげな顔をした。
「つまりだな。ある意味、あんたがしてるのと似たような心配ってやつさ。俺もできるだけ気にかけてはいるんだが……女手ひとつの宿だって思われてちゃあ何かと物騒だろう? まあ、あれだけ強けりゃ、そんじょそこらのゴロツキどもに遅れを取る心配はないっちゃないんだが。それでも、しっかりした大人がひとりお守りについててやってくれれば安心の度合いが違うってもんだ」
「……なるほど」
「まあ、俺にしてみりゃあフェアなんて、いくらしっかりしてるとはいえまだまだそういう、お守りの入り用なガキんちょにしか思えないんだけどなあ」
 苦笑とともに付け加えたグラッドに、セイロンは小さく笑んだ。
「久しく身近にいれば、なかなかわからないものだが……もう店主殿も、立派に年ごろの娘御だとも。鬼妖界の里人であれば、婚儀をあげておってもおかしくない歳なのだからな」
 グラッドが、ついていた肘をずるりとすべらせた。あごを景気よく卓に打ち付ける。
「こ、婚儀ぃ? …待て待て、いや待ってくれ、ありえないだろ」
 何かを押しとどめるように無為に手を振ったグラッドに、セイロンはくつくつとのどを鳴らした。
「シルターンであれば、と申したではないか」
「あ、ああ、そうか、そうだよな……っておい待てよ」
 はたと気づいたように、グラッドが声をひそめた。おそるおそるといった調子で問うてくる。
「それじゃその、なんだ、あんたからすると……いわゆる射程圏内だったり……しないよな?」
「おお、それはだな……」
 なかば目を伏せ、思わせぶりに視線を流す。固唾を呑むグラッドに笑いをかみ殺し、セイロンは口を開いた。
「そなたが店主殿に向けておる思いと、さほどの違いはあるまいさ。龍人族の我からすれば、店主殿はまだ赤子ほどの年月しか生きておらぬのだ」
「なんだ、おどかさないでくれよ……」
 グラッドがほうっと息をつき、その背を椅子に深く沈めた。煮炊きの音をさせている厨房を見やって、セイロンは目をほそめた。
「大切な身内として、支え、助けてやりたいと思っておるよ……まあ、今のところは我のほうこそ、居候として店主殿の厄介になっておるありさまだがね」
 あっはっはと上げた高笑いに、疲れたような笑みが返ってくる。
「まあ、いいんじゃないか。食い扶持分は働いてるんだから」
「お待ちどうさま!」
 明るい声が食堂にひびいた。歩いてくるフェアが手にした盆からは、やわらかな湯気と食欲をそそる香りが立ちのぼっている。グラッドが軽く手を挙げた。
「悪いな、遅くに手間かけて」
「んーん、ありあわせでごめんね。ゆっくりしてってくれていいから」
 白身魚と野菜のクリーム煮に、軽く表面をあぶったパン。その隣に紅茶のカップが置かれた。
「そうしたいのはやまやまなんだが、リシェルたちを送ってく約束なんだ」
 言いながら、グラッドは木さじを手に取り深皿の中身をすくう。せわしなく口に運びながら、その顔がほころんだ。
「うまい。急いでかっこんじまうのがもったいないな、こりゃ」
「えへへ、ありがと。あ、お代わり淹れてくるね」
 ぐいっと茶を飲み干したグラッドを見て、再びフェアが厨房へ駆け戻っていった。
 仕事熱心なこの青年のことだ、働き通しで相当腹を空かせていたのだろうと気持ちのよい食べっぷりを眺めていると、指に跳ねたクリームを舐めとっていたグラッドと目があった。わずかに照れた顔を向けられる。
「悪い、がっついてるな、俺」
「いやいや、空腹は何よりの調味料というからな。ましてや店主殿のつくった料理であれば、なおさら食も進むというものだろうて」
 だよなあ、と相好を崩してから、気づいたようにグラッドがたずねた。
「そういえば、セイロン、あんたはもう晩飯を済ませてるんだよな?」
「うむ。夜の店開きの前にな。それがどうかしたかね?」
「いやあ、自分一人だけ食ってるのが落ちつかなくてさ。独り身で言うのも寂しい話なんだが……誰かと食べる飯ってのは、やっぱりいいもんだよ」
 ふっとグラッドの目が宙を泳いだ。映っているのは彼の故郷に住まう誰がしかだろうか、黒いひとみがやわらかく細められる。
「そうだな……それについては我もまったく同感だ」
 首肯したとたん、グラッドが我に返ったように笑みをひっこめた。
「って、悪いな。……俺なんかよりあんたのほうが」
 すまなそうに眉を寄せた青年に、セイロンは笑んでかぶりを振った。
「いやいや、気に病むことはないぞ。今は、店主殿が我にとっての家族のようなものだ。そういう意味で、同感だと言ったのだよ」
「そうか、そりゃあよかった。あんたにとっても、フェアにとっても」
 ほっとした顔になってグラッドがつぶやいた。
「独りで食う飯の味なんて、子どもが覚えるもんじゃない。あんたがここにいてくれることでフェアにとって何が一番よかったって、そういうことかもしれないな」
「お兄ちゃん、お茶のお代わり……って、なんかわたしのこと話してた?」
 ポットを持って、ひょいと話題の主が顔を出した。怪訝そうにするフェアに笑いかけ、グラッドは空いたカップを差しだした。
「お、ありがとな、フェア。いやなに、セイロンにしっかりおまえのお守りを頼むって話をしてたのさ」
「うむ、大船に乗ったつもりでまかせておきたまえ」
 うなずいてみせたセイロンに、フェアが半眼になった。
「……むしろ、わたしがセイロンの面倒見てるような気もするんだけど。気のせいかしら」
「はっはっは!……まあ、そういう見方もあるな。うむ」
 茶を飲み干して、にやりと笑ったグラッドが立ち上がった。
「うまかったよ、ご馳走さま。……おーい、リシェル、ルシアン! そろそろ行くぞ!」
 どかどかと靴音高く歩き出した青年の背中をながめ、それから、かたわらに立つ娘をセイロンは見やった。
 座った自分とさして目線の変わらない小柄な身体は、ひとたび戦場に立てば、獣のごとくしなやかに動いて敵を討つ。そうと知っていてなお、いま無防備に立っている娘は、セイロンの目に子どもと大人の境にある不安定な存在として映った。
 もとより、他者を守るという行為は己にとってなじみの深いものだ。次代の長として己にまつろう里の民を庇護し、あるいは敬意を持って先の守護竜に仕え、その遺志に従い後継者たる御子の守護を担ってきた。
「セイロン?」
 視線に気づいたか、首をかしげたフェアがこちらを見下ろしてくる。
 そのまなざしを受けとめながら、では、とセイロンは己に問いかけていた。彼女を守らねばと思う、この意志は何に由来するものなのだろうか。
 互いの間に果たすべき責務はなく、ましてや主従の関係もともなわぬ。
 ただ、孤独という闇のなかでうずくまって慟哭している幼子を、抱きあげ、涙をぬぐい、この袖のうちにかくまってやりたいというやわらかな衝動だけが、己のうちにある。
 この思いを呼ぶにふさわしき名が何であるか、つきつめようとは思わない。
 ただわかっているのは、まっすぐな目で笑う彼女を見ていると、腹の底がじんわりとあたたかく、これまで己が生きてきた年月において、ついぞ覚えたことのないたぐいの心地よさを覚えるということだ。
「……もしかして、セイロンもお茶がほしいの? まだ残ってるけど」
 悩むような顔をした後、聞いてきた娘にセイロンは笑い声を上げた。
「いいや。だが折角だから頂くとしようかな。店主殿も一緒にどうだね」
「そうだね、冷めないうちに飲んじゃおうか」
 つられたように笑って、フェアがすとんと椅子に腰を下ろした。よどみのない手つきで、空いていた器ふたつに茶を満たす。どうぞと片方を差しだされた。
 両手で、小さな器を受けとった。目礼をしてゆっくりとかたむける。口にした液体のあたたかさが、やわらかな思いの熱に似て腹に落ちていった。


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