ごとん、と荷車から大きな木箱を地面に降ろして、配達夫の少年がひたいの汗をぬぐった。西に傾きつつある太陽が、その上気したほおをいっそう赤く染めている。 「お疲れさま! こんな町はずれまでいつもありがとね」 一緒に荷下ろしをしたフェアも大きく息をついて、それから深く頭を下げた。用意しておいた運び賃を渡すと、少年が丁寧にその額を確かめた。 「ううん、こっちこそ手伝ってもらって助かりました。またごひいきに!」 かるく帽子のふちを上げると、少年は荷車を引いて元気よく坂を降りていく。 その後ろ姿を見送って、フェアはふうっと息をついた。気を取り直して、背にした勝手口の扉を開ける。 「ルシアーン、ちょっとごめん、こっち手伝ってくれる?」 「あ、うん、いま行くよ!」 食堂の掃除を頼んでいたルシアンから返事が返る。まもなく、手に持った布巾をたたみながら厨房に顔を出した彼に勝手口から声を掛ける。 「ごめんね、途中で」 「ううん、あっちはもう終わるところだったから。……うわあ、すごい荷物だね」 ルシアンが驚いた声を上げた。自分の足もとには、食料品の入った麻袋と木箱が山となって積まれている。 「今晩の仕込みを始める前に片づけちゃおうと思って。一緒に倉庫まで運んでほしいの」 言いながら、大きな木箱を持ちあげた。がちゃんと中に詰まった調味料の瓶が鳴った。わざわざ帝都から取りよせた貴重な品だ。慎重に抱えなおす。 「ルシアンは、そっちの袋を運んでくれる?」 「うん、わかったよ」 箱を抱えて歩きだすと、鼻先を冷たい風がかすめた。日暮れが近づき、暗くなってきた裏庭を横切る。倉庫と勝手口を何往復かしたところで、ふとルシアンが口を開いた。 「そういえば、夕方から見ていないけど……」 「ああ、セイロン?」 荷運びでわずかに上がった息を抑えて、フェアは答えた。 「お漬物がなくなりそうだったから、ミントお姉ちゃんのところに行ってもらってるの。……あ、ごめんねルシアン、疲れちゃった? なんだったら後はわたし一人でも……」 普段なら、こんな力仕事は自分と今は使いに出ているセイロンとで片づけている。線の細さが残る幼なじみに無理をさせたかと訊ねたことばは、顔を上気させた彼本人にさえぎられた。 「あ、ううんそうじゃなくて! ただ、珍しいなって思っただけだから。まかせてくれて大丈夫だよ!」 「そう? ありがとう、助かるよ」 大きく首を振るルシアンに、笑顔を返す。 「セイロンもね、そろそろ帰ってくるんじゃないかと思うんだけど……」 からん、と面影亭の扉に下げた鐘が来客を告げた。 「あれ?」 まだ開店前の時間だが、セイロンなら勝手口から戻ってくるはずだ。箱を抱えたまま逡巡したフェアに、ルシアンがうなずいてみせた。 「ここは僕がやっておくから。フェアさん、行ってきてよ」 「ごめん、それじゃお願いしちゃうね」 そのことばに甘えて玄関へと駆けつける。 夕闇に向かって開かれた扉口には、旅装の男が立っていた。町に着いたばかりなのか、革製のブーツのつまさきには乾ききらない泥がこびりつき、上がり口の木床にこぼれ落ちている。 「いらっしゃいませ! でもごめんなさい、店開きはもう少し後なんです」 「ここの店は、宿もやっていると聞いたんだが……」 深く下ろした暗褐色のフードの下から、男の低い声がした。 「って、ああ、お泊りでしたか!」 フェアは思わず顔を赤らめた。客で賑わうようになった今でも、立地が災いして宿屋としては閑古鳥のこの店だ。旅人然とした格好であるにもかかわらず、宿泊目的とは思い至らなかった。 「すみません、それでしたら今すぐでも大丈夫です。どうぞ、外は寒かったでしょう。入ってください」 「ああ、そうさせてもらおう」 わずかに声をゆるめて、男が背後をふりかえった。 玄関のランプが作った光の輪の外、薄闇の中にもう一つの人影を見て、扉を持っていたフェアはまばたきをした。 「お連れ様ですか? でしたら、お二人で使ってもらえるお部屋を用意しますね」 男がかぶっていたフードを払い落とした。仕事柄、失礼にならない程度に客の様子を改める。 歳は三十前後か。冒険者というには体格に優れず、旅の商人にしては荷物が少ない。ただ、男の動きに合わせてふっと薬草のような嗅ぎなれない香りがしたから、持ち運びの便が良く少量でも高く売れるような嗜好品のたぐいを商っているのかもしれない。手には腰あたりまでの長さの白木の杖。足に不安のある人なら一階の部屋がいいかと杖の石突を見たところで、泥の汚れどころかすり減った様子すらないそれに、おやとフェアは目をとめた。 「いや、一人部屋でいい。あれは床で寝かせる」 男の言葉に驚いて、あわてて顔を上げる。 「え、でも」 扉をくぐった男に続いて入ってきた青年の姿を見て、フェアは口をつぐんだ。 黒いざんばら髪に、粗末な布の服。足もとは、草を編んだ靴底に足指をひっかけるひもを通しただけの簡易な履物。わずかに首が動いてフェアを見下ろした彼のひたいには、ちいさな角が生えていた。 見覚えのあるその形に、少し考えて思い出す。かつてこの町を訪れ、自分たちを助けてくれたスバルと同じ。では、この青年は鬼人なのだ。 「召喚獣に寝台を使わせたとあっちゃあ、あんたのところだって後の掃除が大変だろう?」 「……うちは全然、かまいませんけど」 宿の入り口には、召喚獣の宿泊歓迎の文字がそれぞれの世界の言語で書いてある。元よりリィンバウムの人間には読めないようにそうしてあるわけだし、仮に読めても暗くて目には触れなかっただろう。それでも、荷運びの獣を扱うような口調に、声がかたくなるのが自分でもわかった。男は気づいたふうもなく、にやりと笑って返す。 「商魂たくましいお嬢さんだな。悪いが懐具合もよろしくないんでね。余計な出費はしたくないんだ」 「……わかりました。何泊のご予定ですか」 ぐっとこらえて、フェアは宿帳を差しだした。男は白木の杖をカウンターに立てかけ羽ペンを取った。鬼人の青年は黙ったまま、影法師のように後ろに立っている。 「二泊で頼む。夜と、それから朝はこちらで食事を取るつもりだ。こいつのほうは残飯か何か、適当に食わせてやってくれるか?」 どうにかこらえていたものが、あっさりと切れる音がした。 「……残飯、ですって?」 低い、地鳴りのような低音が床を這った。耳に届いたところでそれが自分の声だと気づく。 「馬鹿にしないで! うちの店に来たお客にそんなもの食べさせるくらいなら、泊まっていただかなくて結構よ!!」 あっけに取られた顔の男にさらに詰めよろうとしたところで、後ろから駆けよってきた誰かに口をふさがれる。 「あのっ! 大変失礼をいたしました。お疲れでしょう、すぐお部屋へご案内します」 剣だこのある小さな手のひら、耳にやわらかなその声は、幼なじみの少年のものだ。 「……落ちついて、フェアさん。ここで暴れたって何にもならないよ」 とっさにふりほどこうとして、ささやかれた言葉にそれをこらえる。動きを止めたフェアに、ルシアンの手がするりと離れた。 「さあ、こちらへどうぞ。驚かせてしまって申しわけありません。あるじは、ああ、さきほどの者がこの宿の主人なんですが、料理人もかねておりまして、お客さまにお出しする料理には少しばかりこだわりがあるものですから……行き過ぎた言いようをいたしました。お詫び申しあげます」 丁重な謝罪のことばとともに、三人の靴音が階段をあがって遠ざかっていく。 床をにらみつけたまま、一歩も動くことができずに、フェアはふるえるこぶしをにぎりしめた。 食事客の波もひと段落つき、空席が目立つ時間になって泊り客二人は部屋から降りてきた。 「お泊りの方ですね。こちらへどうぞ!」 気づいたリシェルが空いた卓へと案内する。鬼人の青年を後ろに立たせて男だけが席に着いたのを見て、フェアは厨房から出た。 「なにか肉料理と、それから果実酒を一本。こいつの分は……おや、あんたか」 「お客さま、先ほどは見苦しいところをお見せしました」 リシェルへの注文を途切れさせ、うさんくさいものを見るような顔でこちらを見た男へ、フェアは精一杯の笑顔を作った。 「お詫びといってはなんですが、お食事に当店特製のデザートをおつけしますね。お連れ様の分のお食事も、お代は結構ですから。さあ、あなたはこちらへ」 手を差しだしたフェアに、けれど鬼人の青年の反応はうすく、ただ困惑した目でフェアの手を見下ろしている。 「行ってこい」 男が声をかけると、青年の視線が動いた。男へ、次に自分の顔へ合わされたのを見て、フェアは青年の手をつかんだ。手の中で、驚いたようにすくんだ指をかまわず引っぱっていく。 ぐいぐいと大柄な体を引いて己の城たる厨房へと連れこんでから、ようやくフェアは息をついた。 「さあ、座って! 久しぶりに作るものばかりだから、あなたの口に合うといいんだけど」 持ちこんだ椅子に座らせて、用意しておいた料理を並べる。前菜代わりの鬼妖界風の甘辛いたれをかけた小さな餅に、山菜のおひたし、居候の龍人もお気に入りのとっておきの花茶を入れて、その隣に置いた。 次いで、鉄の釜から大きめのどんぶりに炊きたての白いごはんを山とよそって、その上に醤油に漬けこんだ赤身魚の切り身を載せ、火であぶった海苔を散らす。 「これだけじゃ足りないよね。唐草うどんもゆでるから、先にそっちを食べて待っててくれる?」 精一杯明るい声で、フェアは青年にほほえみかけた。青年のひとみが、とまどうようにフェアを見つめかえす。 「早く食べないと冷めちゃうよ。さあ」 うながすと、青年は添えられた箸を取った。餅をつまんで口もとへ運び、ゆっくりと咀嚼する。 「どうかな?」 麺をゆでる鍋の前からたずねたフェアに、青年がうつむいた。 「……うまい」 初めて聞いた青年の声音は、やはりどこかスバルに似ていて、なつかしい。 「そっか。……よかった」 ふるえそうになる声をこらえて、フェアは鍋をかきまぜるふりで青年に背を向けた。 青年が食事を終えてあるじと共に部屋へ戻って行った後、汚れた皿を漬けた洗い桶の前で、ぼんやりとフェアは立ちつくしていた。 「考えごとかね、店主殿」 不意に背中に当たった声に身体がすくむ。ふり返ると、セイロンが明かりを落とした廊下に立っていた。ほうっと息をつく。 「なんだ、セイロン……いつからいたの?」 「うむ。彼の者がそこで夕餉を取っていたころからか」 ひょうひょうと言う彼に、何となく決まりが悪くフェアは憎まれ口をたたいた。 「なによ、黙って人の食べるところを見てるなんて、趣味悪いわよ」 「さすがに我とてあのような立場の、しかも同郷の者の前へ顔は出せぬさ」 苦笑を向けられ、フェアは息をつまらせた。いたたまれずに視線を床に落とす。 「ごめん。わたし、無神経だった……」 セイロンのため息が耳に届いた。 「いや……我は良いのだよ。そなたこそ、慣れぬ辛抱をして参っておるのではないかね」 衣擦れと、かすかな足音。うつむいた視界に大きな手があらわれて、そっと目もとを包んだ。 「わたし……ねえ、セイロン」 乾いたその手のあたたかさにほおを預けて、たまらずフェアはうめいた。 「引っぱったあの人の手、傷だらけだった」 「うむ」 「すごく骨ばってて、やせてて」 「そうか」 フェアは顔を上げた。いたわるように見下ろすまなざしと目が合って、くちびるをかみしめる。 「だから……」 すうっと、ひとつ息を吸った。 「あの人が望むなら、わたし、彼をラウスブルグに連れてってあげたい」 わずかに、セイロンの切れ長のひとみが見開かれる。 「彼の者は、あるじのもとから逃げてきたはぐれではない。それをさらえば盗人だ、わかっておるのかね」 「うん」 「召喚獣が消えたとあれば、騒ぎになるぞ。宿に悪い噂も立つ。グラッド殿に迷惑もかかろう」 「セイロンの言うとおりだよ、だけど……!」 自分のしようとしていることが、この国の法に触れるとわかっている。 あの男の人にとって、鬼人の青年は高価な財産で、自分にそれを奪う権利なんてないことも。 「でも、それでも、あの人の手を知らなかったことにして、そのままになんてできないよ……ッ」 押しだした声が、のどにひっかかって苦しかった。 「……そなたのやさしい気持ちを、我は貴いものだと思う」 静かな声で、セイロンが言った。 「だが、店主殿。次にまた同じような者がこの宿を訪れたなら、その時はどうするのだね。幾度もそんなことを繰り返せるわけもないことは、そなたにだってわかっておろう?」 「……わたし、は」 責めるではない問いかけに、一瞬だけくちびるを噛んだ。 「きっと次も、その次も、見て見ないふりなんてできない。それで、自分ができる精一杯のことをしようとすると思う。……たとえそれでたくさんの人に迷惑をかけて、この場所にいられなくなったって」 呆れられてしまうだろうか。身を固くして、フェアはセイロンからのことばを待った。 頭の上で、ふっと息を吐く音がした。ほおに触れていた手が、ゆっくりと首の後ろにまわって引きよせられる。 「そなたにそれだけの覚悟があるのならば、我が同胞を救いたいと望んでくれることに感謝こそすれ、咎めるつもりはないよ」 そのまま降りたセイロンの手が、いつかのように背中をなでた。 「目の前で苦しむ者を救いたいと望む気持ち自体は、情を持つ生き物であれば自然なものだ。だが、そなたが……虐げられている召喚獣がいくらでもいるなかで、彼らのうちからいくらかを選び、救いきれない残りを見捨てることとなる道へと踏みだそうとしているのだという覚悟も持たぬのであれば、そのような半端な思いで手を出すべきではないといさめるつもりであったが」 静かに、セイロンが息を吐きだした。 「そなたは、救う者と見捨てる者の線引きをしないと、そう言うのだな。みなが病に伏したあの日、あの絶望的な状況の中でさえ……何ひとつとしてあきらめきれず、あがき、もがいて、最後には望んだ結末を引きよせてみせたように」 顔を埋めた胸もとから、かすかに苦笑する気配がやわらかな振動とともに伝わってくる。 「……困ったものだな。誰もが二の足を踏むようなやっかいごとに向き合うときでさえ、その難儀のいかばかりかを推し量ることもせぬまま、がむしゃらにぶつかっていくそなたの姿を見ていると……その向こう見ずなやりようが、どうにも好ましく思えてしまうのだよ」 「セイロン……」 思わず名を呼んで、けれどうまくことばにできずに口ごもったフェアに、笑みを含んだ声が降った。 「なに、気負うことはない。そなたが望んで成しうることは、そなた一人だけの力で成せるそれよりはるかに大きなものだ。そなたの望みを叶えるためとあらば、もてる力を尽くそうと思う者のどれほど多いことか……ああ、言うまでもないやもしれぬが、我もそのうちの一人なのだよ」 セイロンの胸にひたいをつけたままで、フェアは小さく笑った。 「それは、すごーく、心強いかも」 「あっはっは、そうであろうとも。大船に乗ったつもりでいてよいのだぞ」 セイロンのいつも通りの笑い声に、フェアは目を閉じ、うなずいた。 「うん。……ありがとう、セイロン」 「それにしても、妙なこともあるものだな」 店じまいとともにリシェルたちを帰して、ひとり励んでいた皿洗いの水音に紛れ、耳に届いたことばにフェアは顔を上げた。 食堂の椅子を卓に上げ、床をみがいていたセイロンが、作業を終えて厨房へ入ってくる。 「なにか、気になることでもあった?」 セイロンが手にした扇子をつと広げた。考え深げに口を開く。 「うむ、先ほどの話なのだがな。そなたも承知のことと思うが、彼の者は鬼人なのだよ。そして、鬼人といえば、我ら龍人にも劣らぬ神通力と、己があるじと定めた者にしか従おうとしない気骨を持った者たちだ」 「それがどうかしたの?」 ぱちん、と軽い音を立てて扇子が閉じられる。 「では、そなたには、あの人間の男がそれほどの器と見えたかね」 「それは……でも、誓約があれば、無理やり従わせることだってできるでしょ」 うなったフェアに、セイロンがもっともらしくうなずいた。 「苦痛でもって縛ることはできるだろうな。だがそれにしても、彼の者からは、あるじへの反感も憎しみも感じられなかった……というよりも、覇気自体がなさすぎる。あの様子では、店主殿が誘っても逃げるとは言わぬかもしれぬぞ」 「うっ……でも、それは」 「まず、やってみなければわからない! ……だろう?」 からかうような声音で言葉を先取りされ、フェアは口をとがらせた。 「わかってるなら、言わなくたっていいじゃない」 「あっはっは、それはそうだが、先に覚悟のあるとないでは大違いではないのかね」 のんきに笑ってみせた男の気遣いに、フェアはため息をひとつ吐いて、少し笑った。 「そうだね。うん」 「で、そなた、具体的にはどうするつもりなのだ」 水気を拭いて重ねた食器を手に、フェアは首をひねった。その手から、セイロンが大きな器を取り上げ、手際よく棚の高いほうへとしまっていく。 「うーん、とりあえず明日一日様子を見て、夕飯の時に声をかけてみようかなって。連れだすのは、夜遅くのみんなが寝ちゃってから。難しそうなら、セイレーヌに手伝ってもらって眠らせちゃってもいいし。そのあとは……」 隣に立つセイロンを、上目遣いにのぞきこむ。 「城まで我が送っていってやれと、そういうことかな」 苦笑を返したセイロンに、フェアは照れ笑いを浮かべた。 「えへへへ……さすがはセイロン。話の手間がはぶけるわ! だってほら、わたしが店を空けたら怪しすぎるじゃない?」 「ともあれ、あの者の決断次第だな。城に居れば、いつかは帰ることも望めるだろうが……誓約に逆らうよりは、あるじが送還する気になる日まで仕えるほうがよいと言うやもしれぬ」 静かに告げられたことばに、ふうっとフェアは息を吐いた。 「……いくらわたしがよかれと思っても、決めるのはあの人自身だものね」 伸びてきた手に、ぽんぽんとかるく頭をたたかれる。 「考えてもどうにもならないことを思い悩むのは、そなたには似合わんよ。今宵は早く床について、ゆっくり休むがよかろう」 「うん、あと戸締りだけ見て回ったらすぐ寝るから」 笑ってうなずいたフェアに、セイロンが顔をしかめた。 「それくらいなら何もそなたでなくとも、我が」 「なに言ってるのよ。セイロンこそ、明日からがんばってもらわなきゃいけないんだから」 どんと背中をはたく。セイロンが、苦笑まじりにくちびるをほころばせた。 「そうか。……では、店主殿のことばに甘えるとしようかな」 「うん。お休みなさい」 うなずいて、セイロンは暗い廊下へと出て行った。黒い着物が闇に溶け、緋色の髪も沈んで消える。見えなくなった背中へ向けて、フェアは小さくささやいた。 「……ほんとは、すごく不安だよ、でも」 大変なことをしでかそうとしている自覚がある。うまくいくかもわからない。それでも自分は、走り出す足を、気持ちを止められないから。 「わたしのワガママにつきあってくれて、ありがとう。……セイロン」 |