「寒いなあ……」 思わずつぶやきがもれた。 宿泊客のためにところどころ点けたままで残してある灯火も、冷えこみをしのぐ助けにはならない。靴底を通して這いあがってくる床の冷たさに身ぶるいをしたところで、はたと思い至る。 そうだ、あの青年にせめて寝具だけでも持っていってやらなくては。 戸締りはいったんおいて、フェアは自室へ引きか返した。棚から予備のマットレスとシーツに加えて、それらを床に広げてもいいよう下敷きにするための敷物を引っぱりだす。毛布と枕、寝間着まで一そろい出して、できあがった山に思わずフェアはうっとうめいた。かなりの大荷物だ。 仕方がない。二回にわけて運ぼうと腹をくくる。まずは、まるめた敷物とマットレスにシーツを抱えあげた。手燭は置いていくことにする。 「よいしょっと……」 重さよりも、抱えた荷物で前が見えないことのほうがつらい。暗い階段をつまさきの感覚をたよりにして、一歩ずつ上っていく。 バランスの悪い荷物によろめきながら目指す客室の前までたどりついて、ほっと息をついた。扉と床の間のすき間からはわずかに灯りがもれている。荷物を壁に押しつけて、無理やり空けた片手で扉をたたいた。 「夜分にすみません。宿の者ですが、開けてもらえませんか」 扉の向こうで人の話し声がした。内容までは聞きとれなかったが、男が鬼人の青年へ向けたものだったのだろう。しばらくして錠を外す音に続き、のろのろと扉が引き開けられた。鬼人の青年が、半ばほど開いたすき間のほとんどをふさぐように立っている。 暗がりに慣れた目にはそこからもれるランプの明かりがまぶしく、フェアは目をほそめた。 「何の用だ?」 青年の後ろの方から、わずかに警戒するような男の声がした。 返事をしようと大きく息を吸った瞬間、鼻腔をかすめた違和感に、一瞬フェアは口ごもった。 「あの、……お連れの方の寝具を持ってきました」 室内は強い芳香で満ちていた。なんの香りだろう。よく乾かした草のような、嫌なものではないが、なんとなく落ちつかない匂いだ。 「別にそんなもの……」 面倒そうな声が聞こえて、むっとする。 「料金なんて取りませんから。お邪魔しますね!」 立ったまま動かない鬼人の青年を押しのけて、フェアは歩を進めた。力をこめたつもりはなかったが、押した青年がたたらを踏む。 驚いてフェアは足を止めた。後ろへ一、二歩よろめいたところで、青年はこちらを見ることもなくぼうっと立っている。転ばせたわけではなかったことに安心して、息を吐いた。 マットレスとシーツをとりあえずテーブルの上に置こうとしたところで、そこに火の入った小さな香炉が置かれていることに気づく。さきほどの香りのもとはどうやらこれだ。宿の備品ではないから、男の持ち物なのだろう。 しかたなく、敷物を床に落とすようにして広げ、そのまま即席のベッドメイキングにかかったフェアに、奥の寝台に腰かけていた男がうんざりとした視線を投げてくる。 「そろそろ休もうと思っていたんだが……勘弁してくれよ」 ちらりとそちらを見あげてから、フェアは作業をする手もとに視線を戻す。 「すぐ済みますから。いくら宿の中だからって、何もなしじゃ体に障ります」 心底呆れかえったふうの声が返った。 「おいおい、馬だの牛だのが、吹きさらしの畜舎で風邪を引くか?」 たまらず、フェアはシーツをにぎりしめたまま立ちあがった。 「この人は獣じゃない。少し姿が違うってだけで、わたしたちと同じなんです」 にらみつけるフェアの視線の先で、男が不快げに眉を寄せた。 「子どもの言うことだと思って大目に見てやってれば、家畜と人間を同じ扱いにする気なのか、この宿は」 「だから……ッ!」 激昂する気持ちを抑えようと、フェアは大きく息を吸った。一歩男へ踏み出そうとして、床がかたむいたような感覚によろめく。 「………?」 頭に血が上りすぎたのだろうか。突然の目眩に、フェアは首をふった。次いで、かくんとひざから力が抜ける。 「……あ、れっ?」 こらえきれずにそのまま床に倒れこむ。 体のほとんどは敷きかけだった寝具の上に落ちて、痛みはなかった。ほおがマットレスに沈む。よく干した日なたの匂いとともに胸に忍びこむ、枯れた草の香り。 「おい?」 驚いたように、男が奥の寝台から立ち上がった。視線だけをそちらへ向けて、フェアは動けない。わずかな沈黙の後、見おろす男の顔に得心したような笑みが浮かんだ。 「……ああ、なるほど。そういうことか」 歩みよったつまさきがフェアの肩を蹴った。 「なに、すんのよ……っ」 うなったフェアを見おろしたのは、己が絶対的に強い立場にあることを確信している者が弱者をなぶる嘲笑だった。 「道理で、やたらと召喚獣をかばうわけだな。……おまえ、どこから逃げてきた?」 問われていることの意味がわからない。顔をしかめたフェアをどう思ったか、低く笑って男は続けた。 「いい匂いだろう? この部屋に焚いてあるのは、人間なら変わった香りがするってだけの無害な香木だがな。吸いこんだ奴が召喚獣なら話は別だ。頭を弱らせ、適度に力を萎えさせてくれる……物わかりの悪い獣を手なずけるにはうってつけの代物ってわけだ」 男の言わんとすることを理解して、フェアは見おろしてくる相手をにらみあげる。 「そんな卑怯なやり口で、自分じゃ御しきれないこの人を弱らせて、いいように使ってたってことね……!」 「一丁前に怒ってみせるのは結構だが、自分の立場をわかってるか?」 ブーツのつまさきが、勢いよくフェアの腹を蹴り上げた。 「……ッ!」 ぐっと息がつまる。衝撃とともに体が転がってうつぶせになった。起き上がろうとした腕には、うまく力が入らない。 愉快そうにしていた声が、苛立ちを含んで低くなった。 「人間のような風体にだまされたかと思うと、反吐が出る」 ようやく体を起こしかけたところに、支える腕を蹴られてふたたびフェアは倒れこむ。男がいまいましげに吐き捨てた。 「その上、人の話もおとなしく聞いていられないときた。少しばかり躾直してやったほうが良さそうだな。……おい」 いまのいままで、人形のように静かだった青年の動きに空気が揺れる。男の声音に暗い笑いがにじんだ。 「お仲間思いのそこの娘が、おまえのことを慰めてくれるとさ。……獣らしく、鳴かせてやれ」 フェアの上に、黒い大きな影が緩慢な動きで覆いかぶさってきた。 肩をつかんで仰向けにされる。フェアは、呆然と青年の顔を見上げた。大柄な体がランプの明かりをさえぎって、その表情はよくわからない。 エプロンごとワンピースのすそをたくしあげられて、我に返った。力をふりしぼって蹴り上げようとしたつまさきは、圧しかかる重みに敷かれて動かない。 「や、やだっ、放して!」 よじった背に頓着なく入りこんできた手が、ズボンをひざまで引きずりおろした。脚に冷たい空気が触れて身をすくめる間もなく、もっと冷えて乾いた手がぐっと素肌を押さえて、鳥肌が立った。 「………ッ!」 体がすくむ。必死に引きはがそうとする指がふるえて、うまく息ができない。フェアは息苦しさにあえいだ。腰をつかむ手にかたく目をつぶる。 「や、……やだ…っ」 かすれた息の下から、自分のものとは思えない弱々しい声がもれた。 「う、ぐ……っ」 不意に、それに被さるように低いうめきが上がった。 青年の動きが止まったことに気づいて、こわばったまぶたを引きはがしてうすく目を開けた。自分のわき腹に触れた指が、かすかにふるえているのがわかる。 「う、うう……ああ、あッ」 覆いかぶさる鬼人の青年の顔には苦悶の表情が浮かんでいた。フェアの両脇に手をついて、かきむしるように敷布をにぎりしめる。 日に焼けたあごからぱたりと冷たい汗が落ちて、フェアの首筋をぬらした。大きく見開かれたひとみは、激情をこらえるようにゆがんだ、きれいな黒。 「……嫌、だ……俺は」 わずかにかぶりを振って荒い息をつく。青年の手が、ふるえながら自身の胸もとをつかんだ。 苦しむ青年の、さらに上からいまいましげな舌打ちが落ちてきた。 「役立たずが」 吐き捨てられたことばに、唄うような詠唱が続く。なかばもうろうとしてきた意識のなかで、フェアはその呪言を聞きとった。 青年の体が硬直する。色の失せたくちびるが大きくふるえた。 「あ、あ、……ああ!」 突然、青年が身を折った。フェアの上から転がり落ちる。 大きな体を芋虫のように丸めて痙攣する。咳きこんだ口もとから鮮血がこぼれて床を汚した。 「な、……ッ」 呆然として、そちらへ伸ばしかけた手首を、横から伸びてきた手につかまれる。 「うるわしき同族愛ってやつだな」 つかんだ指の持ち主は面白くもなさそうに言って、もう一方の手ににぎっていた白木の杖を投げ捨てた。杖はからんと床を打って、澄んだ音をひびかせる。 「まあ、あれにはそろそろ香の効きも悪くなってきていたところだったし、仕方がないか」 「……いま、のは…」 うまく働かない頭を叱咤して、フェアはうめいた。聞き覚えのある呪。かつて戦の場で、道を外れゆがんだ鬼道をあやつる者たちが口にしていた呪いに、よく似たもの。 「あなた……外法を」 嫌悪をこめてつぶやく。こちらへ身をかがめていた男の声が、険を帯びて低くなった。 「……外法だと? 召喚獣風情が言ってくれるじゃないか。広く知られたとおりの手順を踏むよりも、はるかに知識も要すれば、技量もあってこそ活きる方術だ」 そのまま、つかまれた手首だけでひざ立ちの格好まで引き起こされる。抜けるように肩が痛んだ。無造作に腕を放されへたりこむ。 すくむ体を叱咤し、必死に首を上げてフェアは男をにらみあげた。不快そうなまなざしが返ってくる。 「まったく、いまいましい目をする。どうやら己の身のほども忘れているようだな。人と見まがう見てくれのせいか」 男が床に片ひざをついた。フェアの襟もとの飾りタイに手をかけ、むしり取る。 入らぬ力をふりしぼって、男の手を払いのけようと抗う。衝撃とともに乾いた音が耳を打った。少し遅れてほおを張られたのだと気づく。 頭がぐらぐらとして、痛みはかすみがかっていた。はずみで舌を噛んだらしく、口の中に血の味が広がる。 「そこに転がっている木偶の坊に、今度ははらわたでも吐かせてやれば、もう少し聞き分けがよくなるのか」 感慨のないまなざしが動かなくなった青年へと投げられたのを見て、血の気が引いた。体をこわばらせたフェアに男が笑う。 「獣にしては頭がいい。……さて、おまえは一体何なんだ? どこかに羽毛か鱗でもあるのかな」 男の手が、乱れた黒いワンピースのすそから入って背筋をさぐった。這いあがる指にこみあげる嫌悪感を、必死にこらえる。 「………ッ」 もう片方の手が、へそまわりを撫で、力まかせに乳房をにぎる。声もなく身をのけぞらせたフェアを、男が鼻で笑った。 「もどきが、人の娘のような顔をしてみせる」 続けて、不審げにつぶやいた。 「しかし、どこにもそれらしいしるしがないな。てっきり亜人かと思ったが……」 そのことばをさえぎって、硬いものをたたくような音がひびいた。 男がわずかに身をすくめ、その背後へ振り向いた。 何度も、執拗に繰りかえされるその重い響きを、もやがかかるようにぼんやりとした頭でフェアは聞く。 ―――扉を、たたく音? 「ええい、まどろっこしい……そこにいるのだろう、店主殿!」 聞き覚えのある腹立たしげな声。ほぼ同時に、破砕音が空気を打った。 与えられた振動に、錠がドアノブごと吹っ飛んだ。その穴から出た手が戸板をつかんで、闇に向かって扉が開く。 セイロン、と呼ぼうとした声は、かすれて音にならなかった。 不機嫌そうにほこりを払った闖入者のまなざしが、ゆるりと動いて自分のところで止まる。 ほそめられていた緋色のひとみが、わずかに大きくなった。 「………これは、どういうことだ」 低く、押し殺すような声だった。 フェアを放りだして、杖を手に男は立ち上がった。仰向けに倒れたフェアは、自分と目があったとたん、はじかれたように男へ顔を向けたセイロンをぼんやりと見上げた。 「俺は、人間のふりをしていた召喚獣を検分していただけだ。そういうおまえも……」 言いながら、男はセイロンの姿かたちに目を留めた。とたん、声が居丈高なものになる。 「なんだ、またはぐれのお出ましか」 セイロンの目には、見たこともないほど剣呑な光が宿っていた。 「外道が……」 ぎりっと歯のこすれあう音が聞こえた気がした。そこで、鈍い頭がようやく気づく。 早く、彼に伝えなければ。かわいて舌のはりついたのどで、つばを飲み込もうとするけれどまったく効を為さない。必死に声をふりしぼった。 「セイ……ロン……この、香……」 「わかっている」 低い声でセイロンが応じた。 ゆったりとした袖がひるがえり、空気を切る音がした。派手な騒音とともに香炉が転がり落ち、つづいて部屋の窓が割れた。 冷たい風が開け放たれた扉へと吹きぬけていく。投具を投げたのだと気づいてか、男がかまえた杖で虚空にすばやく方陣を描いた。 吐血した鬼人の青年が脳裏をよぎって、フェアは思わず目をつぶる。 「……なるほどな」 一瞬の間をおいて、セイロンの冷たい声が耳を打った。 「な……ッ」 うろたえた男のうめきに、フェアはそろそろと目を開けた。何ごともなく立っているセイロンが、倒れている鬼人の青年に視線をやった。 「さきほど我が感じた鬼道の気配は、これか。童の手習い程度の腕とはいえ、おかげで異変に気付けたのだから、外法に手を染めるようなその性根にはむしろ感謝すべきやもしれぬな。……さて」 塵でも払い落とすように、セイロンが肩をなでた。激昂をおさえた声音で吐き捨てる。 「さんざ弱らせた鬼の子と、この我を同じと思うなよ。真の鬼道と貴様の児戯とのへだたり、その身をもって知るがいい」 気おされ動けぬ男に、セイロンの腕が伸びた。指に挟んだ赤黒い札を男ののどに押しつける。 「……ぐ、が……ッ」 男の肩がはねた。からんと杖が転がる。 「く、苦し……いき、が……頼む、やめ……あ、ぐ、あぁ」 のどもとをかきむしって、膝をつく。そのさまをしばらく見下ろしてから、セイロンがつぶやいた。 「聞き苦しい。黙れ」 その首筋に手刀を落とす。あっさりと男は床に転がった。その体がひくひくと痙攣している。 倒れたまま呆然と見あげていたフェアに、セイロンがかがみこんできた。そっと片ひざをつく。 「フェア……」 口を開けたが、声が出なかった。セイロンが苦い顔をする。 「無理に声を出さずともよい。香が抜ければ、動けるようになるはずだが……痛むかね」 張られたほおを、そっと触れるか触れないかのところで包まれる。それこそ香のせいだろうか、痛みはなく、フェアは首を振った。 「すまぬ、フェア……すこし我慢してくれ」 セイロンが低くつぶやいた。背中に手を入れ、抱き起こされる。 丁寧な手つきで、腹近くまでたくし上げられていたワンピースのすそが直され、乱れた上着をととのえられた。ふくらはぎまで落ちてからみついていたズボンは、すこし迷ったように手が止まった後、かかとを持ち上げ引き抜かれる。 そうされているのがまるで自分のことではないようで、フェアはぼんやりとセイロンの手を見ていた。 背中を、立てたセイロンの片ひざにもたせかけられ、視界が動く。倒れ伏した鬼人の青年が目に入った。ひゅっと飲んだ息が伝わったらしく、セイロンがフェアの視線の先を追った。 「ああ……いかんな」 言いながらも、セイロンの視線がフェアと青年の間をさまよう。わたしはいいから、と意志を込めて、フェアはセイロンの胸を軽く押した。 セイロンが深いためいきをついた。 「……了解した」 ふわりと浮遊感があって、抱きあげられたのだと気づく。 力が入らないまま、下ろされた寝台に背中が沈んだ。肩から下をくるむようにしてフェアが持ってきたシーツをかけられる。 見上げれば、あやすように伸びてきた手がひたいに触れた。長い指が、ほおに張りついた前髪をやさしく払う。 立ち上がったセイロンが、倒れた青年のもとへ寄った。横たわったまま、フェアはぼうっとその背を見ていた。青年のひたいに手をのせ、セイロンが何事かつぶやく。 「…………ッ」 小さなうめき声があがった。 「おぬしに憑いていたものは祓ったぞ。どうだ、動けるか」 声を抑えた問いに、しばらくの沈黙が落ちた。 「……龍?」 ぼんやりとつぶやいた青年に、セイロンが苦笑する。 「我は龍人だよ、鬼神の末裔よ」 「龍人……どうして、こんなところに、……!」 起き上がろうとして、果たせずもがいた青年の肩をセイロンが押さえた。 「そうだ、俺は、……あの子は!」 「おぬしが気にかけているのが店主殿のことであれば……」 セイロンがふり返った。青年の視線もこちらを向く。その悲痛な色の目に、フェアはとっさに笑みを返した。うまくできたかはわからなかったが、わずかに青年の眉がゆるんだので、ちゃんと笑えていたのだと思うことにする。 「俺は、大丈夫だ。貴方から気を分けてもらったから、このまま休んでいれば、そのうち動けるようになる。だから……」 青年の口調は、だんだんしっかりしたものになってきていた。 「うむ、では、悪いがおぬしのことばに甘えさせてもらう。ああ、そこの下郎は朝まで目を覚まさぬとは思うが……」 思い出したようにセイロンが付けくわえた。 「縛りは解いておらぬから、万が一目覚めても問題あるまい。うるさくうめくようなら、首でも絞めて落としておくがよかろう」 黒い袖につつまれた腕に、シーツごと抱え上げられる。 部屋から出ると、冷たい空気がのどをすべり落ちた。まだ頭はぼうっとしていたけれど、間断なく続いていた目眩はましになった気がして、フェアは息をついた。 セイロンが極力揺らさないように気をつけてくれているのがわかる。ところどころに灯りのともった廊下を抜け、フェアの部屋の前まできて、セイロンが立ち止まった。 「失礼する」 一言断ると、フェアの背中を胸にもたせかけるように抱えなおして扉を開ける。二段ベッドの下の寝台に下ろされ、背中からそっと腕を抜かれた。 セイロンはフェアが見つめる先で壁に掛かっている灯りに寄ると、減っていた油をつぎたして寝台の横に戻ってきた。 シーツの上から、さらに上掛けをかけられる。きちんと肩まで包むようにして、すっとその手が離れた。 「そばについておるにしろ、体をちゃんと見てもらうにしろ、女性のほうがよいだろう。すぐにミント殿を呼んで……」 身を返そうとするセイロンの衣の袖を、とっさにフェアはにぎりしめていた。 力が入らずそのまま手触りのよい衣はすべりぬけたけれど、裾を引かれたことはわかったらしい。驚いた顔でセイロンがふり返った。闇にかげった紅のひとみがこちらを見下ろしている。 「店主殿?」 いまさら、指がふるえはじめていた。 つい先ほどまで、何もかも自分のことではないように思えていたのに。彼がいなくなるとわかったとたん、脚が、体が冷えて、口が渇いた。 突き上げるように怯えがこみあげる。理性ではセイロンを困らせてはだめだと思うのに、もう大丈夫なんだと必死に自分へ言い聞かせても、恐ろしくて、ふるえが止まらない。目眩がひどくなる。 早くなにか言わないと。置いていかれてしまうのに。 すがる気持ちで見上げていると、セイロンが眉を寄せた。 「……我でもよいかね、店主殿」 上掛けの上に落ちていた手を取られ、そっと両手でつつまれる。嗄れた声のかわりに、フェアは指先に力をこめた。 |