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 セイロンは、静かに息を吐いた。
 そろそろ窓の外が明るくなってきている。その青みがかった光を受けて、真っ白い顔で娘は眠っていた。
 結局おびえきった彼女を独りにすることができずに、浴室まで運んで残り湯で手足をぬぐってやった後、寝台に寝せつけたのだ。そのとたん、すとんと気を失うように眠りに落ちた寝顔を眺めて一晩を過ごした。
 そろそろ、来るか。
 思ったとたん、夜明けのしじまを破って高らかに朝を告げる声がした。
「フェア! 朝よ、手伝いに来てやったわよ、起きなさーいっ!!」
 常なら元気のよいことだと笑っていたが、今日ばかりは叱ってやりたい気持ちで、寝台のかたわらから立ち上がる。ひびき渡る幼なじみの大声でも、死んだような寝顔に変わりがないことを確かめて、セイロンはそっと娘の部屋の扉を閉めた。


「おっそーい! この寒いなか女の子を待たせるなんてどういう了見よっ!?」
 店の扉を開けると、へそのあたりに両の腕を巻きつけた格好のリシェルが高い声を上げた。
 玄関口に近づいたあたりから何やら床を打つような音が聞こえていたのは、彼女の靴音であったらしい。せわしなく足踏みを続けるその隣から、あきらめの色濃い声が上がった。
「ねえさん……だから言ったじゃない。せめて、上になにか羽織ってきたほうがいいよって」
 弟の指摘を受けて、リシェルがすねたように口をとがらせる。
「るっさいわね。あたしはこの格好が気に入ってるんだから、これでいいの!」
「やれやれ、朝っぱらから姉弟で喧嘩をするでないよ。……ところでだな」
 そのやりとりに半ば本気で苦笑しながら、セイロンはことさらに明朗な声音を選んだ。
「折角来てくれたそなたらにはまったく申しわけないのだが、今日は店を休業とさせてもらおうかと思うのだよ」
「はあ? 休みってどういうことよ。だいたいフェアはどうしたの?」
 幼い顔立ちを目一杯しかめたリシェルが、声高に問うた。
「いやはや、店主殿ならまだ眠っておってな。というのも……」
 リシェルの眉が跳ねあがる。
「まだ寝てるですってえ!?」
 言うが早いが、脇をすり抜け駆けこもうとする襟首にとっさに指をかけた。ぐいと引きもどす。娘の勢いが災いして、思い切り首が絞まったらしい。その喉から空気の漏れる音がした。
「……ッ、ちょっと!? 猫の子みたいなつかみ方しないでよっ!」
「おお、すまんすまん、つい手が出てしまったのだ。許すがよいぞ」
 咳きこみながらの抗議に、口もとを覆った扇子の下からセイロンはのんびりと応じてやった。
「さて、話を戻すが……実は、昨晩遅くに泊まり客と少々揉めごとがあったのだよ。一応収まりはついたのだが、店主殿もずいぶんとくたびれた様子であったゆえ、叩き起こすのも気が引けてな」
 ルシアンが複雑そうな顔になる。
「昨日のお客さん、ですか」
「あれじゃあ、あいつがキレても無理ないもんねえ」
 ようやく落ちついた様子で、リシェルが深いため息をついた。
「うむ、わかってもらえたようで何よりだ」
「ま、そういうことなら、フェアもここのところ働きづめだったし、一日くらいゆっくりするのもいいかもね」
 リシェルが手にしていたロッドをくるりとまわして肩にあずけた。とん、とんとコートの肩口を叩きながら、思案げに続ける。
「帰りついでに、こっちに顔を出してくれるようにグラッドさんに声をかけとくわね。お客と揉めたってことなら、一応話を通しておいた方がいいでしょ」
「おお、それもそうだな。よろしく頼む」
「それじゃ、僕たちは失礼しますけど。……僕たちや父さんで役に立てることがあるなら、いつでも言ってくださいね」
「ああ、もちろん、そうさせてもらうとも」
 心配そうな顔で言ったルシアンに、セイロンはうなずき、笑ってみせた。


 扉を閉めたところで、知らずため息が落ちた。ゆっくりとこうべをめぐらせる。
 食堂の奥、火の気を落としたままの厨房は、眠るような静けさに沈んでいた。そちらへ歩み入り、窓の鎧戸を開ける。目を閉じて、冷えた外気を吸いこんだ。
 闊達に立ち働く娘の気配も、煮炊きのあたたかな湯気もなく、外からすべりこむささやかな鳥のさえずりが静謐をいっそう際だたせる。
 ふうっと呼気を吐きだして、セイロンは目を開けた。おもむろにかまどのそばへしゃがんで、灰に埋めた種火を掻きおこす。
 外気にさらされた木炭が、宿した熱をその表面に赤々とかがやかせた。くべた薪へと火が移り、ちろちろと揺れる炎の舌が、緋色の裳裾のようにひらめき燃えあがる。ぱちん、ぱちんとかろやかな音が上がるたび、ちらちらと火の粉が散った。
 水を張っておいた鍋をその上にかける。明けの空を映して凪いだ水面がやがてゆらめき始めるのを、セイロンはただ見降ろしていた。
 やがて波立ちだした水面へひときわ大きなあぶくが鍋の底からのぼってきたと同時に、扉を叩く音が来客を告げた。薪を崩し、火の勢いを落として、セイロンは店の玄関へ向かった。
 扉につけられた飾り窓の向こうには、見慣れた背の高い人影が映っている。
「朝早くにすまぬな、グラッド殿」
 迎え入れれば、訪れた相手は屈託のない笑みを見せた。
「いや、どうせもう勤務にはついてたからな。それより、フェアがまたなんかやらかしたんだって?」
「うむ、……それがだな」
 気安げな問いに、思わずセイロンはことばをにごしていた。
「……まず、茶でも淹れよう。座っていてくれ」
「なんだ、厄介な話なのか?」
 卓に上げてあった椅子のひとつを降ろしたグラッドが、怪訝そうに言う声を背中に聞く。
「ああ……いや」
 茶器に沸かした湯をそそぎながら、セイロンは深い息を吐きだした。鬼人の青年の身柄についての相談もあることを思えば、中途半端な隠し立てができようはずもない。
 淹れた茶をグラッドの前に置き、向かいに腰を下ろした。できうる限り私情をこめず、事の次第を話し終えたところでグラッドがこわばった声でたずねてきた。
「それで、フェアは……」
「身体的には問題あるまい。今はよく眠っておるよ」
 グラッドの張りつめていた表情がゆるんだ。その口もとから息が漏れる。
「そうか……」
「あとはあの二人の処遇なのだが、できれば、店主殿が目を覚ますまでにけりをつけておきたい」
 椅子に背を沈めていたグラッドは、大きく息を吸って、その声に張りを取り戻した。
「そうだな、できればまずその鬼人のほうから話を聞かせてほしいんだが……さっきの話からすると、まだしばらくは安静にしてなきゃまずいんじゃないのか?」
「いや、もうずいぶん具合もいいようでな。話をする程度ならば支障あるまい。案内しよう」
 立ち上がると、グラッドも意外そうな顔で席を立った。
「大丈夫なのかよ?」
 青年を移した客室へ先導しつつ、セイロンは答えを返す。
「例の男が操っていた術は、もとよりその世界の住人には効果の出にくいものであったからな。……っと、ここだ。失礼する」
 最後の一声は室内へと向けて扉を開ける。
 壁際の寝台に座っていた青年が、こちらへ静かに視線を向けた。立ち上がろうとする気配に先んじて制する。
「ああ、そのままでよいぞ。こちらの御仁は……」
 紹介しようとしたところで、後ろにいたグラッドが歩み出た。
「帝国軍陸戦隊、トレイユ駐在武官のグラッドだ」
 落ちついた物腰で、鬼人の青年はこうべを垂れた。
「お初にお目にかかる。六ツ魂の鬼士たるガイエンが眷属、ロウガと申す」
 敵意のなさを示すように、その手を両のひざにおいた姿勢で続ける。
「己の所業が、詫びて許されるようなものでないことはわかっているつもりだ。この地の法に従い、しかるべき処断をいただきたく存ずる」
 そのまま動かない青年を見下ろしていたグラッドが、口を開いた。
「君、……ロウガ、だったか」
 呼ばれた名に、鬼人の青年が顔を上げた。無造作に切られた前髪のあいだから、澄んだ黒いひとみが相対する軍人をまっすぐに見つめ返す。
「事件に関わるあらかたの事情は、先にそこのセイロンから聞いてる。……だから、俺は君には会っていないし、これから起こることも見ていない」
 怪訝そうな顔をした青年に、グラッドが大きく息を吐きだした。その声音がわずかに常のくだけた気配を帯びる。
「性根の曲がった悪党なら、腐るほど見てきたんでな。……フェアが助けようとしてたってことを差し引いても、あんたがそういうやからじゃないってことくらいはわかるさ。ここから先はセイロンに聞いてくれ。俺は、もう一人のほうへ行ってくる」
「すまぬな、グラッド殿」
 声をかけたセイロンに、グラッドが苦笑いをした。
「まったくだ。……まあ、フェアの気持ちは、俺にもわかる。だが、これ以上のことはできないぞ。あとはあんたに任せたからな」
 肩越しに片手をあげて出ていった軍人の後ろ姿をぽかんと見送っている青年の肩に、セイロンは扇子の先をのせた。
「我の見立てでは、おぬしを蝕んでいた香も、二、三日中にはほぼ効能を失うはずだ。……おぬしは自由だ、ということだよ。ロウガ殿」
「しかし……」
 あっけに取られた顔で二の句が継げない様子の青年に、セイロンは続けた。
「無論、あてもなく放り出そうというのではないぞ。この町から、そうだな……おぬしの足で北へ三日ほどのところに、あるじのもとから逃げだした召喚獣たちの暮らす隠れ里がある。その里長たる守護竜殿は、数年に一度、己の元へ逃げてきた民を異界へ渡すこととしておられるのだよ。里までは我が送っていくゆえ、帰還の叶う時節までそこに留まるがよかろう」
 しばらくの間をおいて、青年のひとみに理解の色が浮かんだ。
「ひとつ、聞かせてほしい。その里には、俺一人でも踏み入ることができるだろうか?」
「フム……隠れ里の名のとおり、ラウスブルグはこの世界とは異なる空間にひそんでおる。が、守護竜殿は、里のそばに召喚獣が来ていないかを常に気にかけておられるからな。辿りつくことさえできれば、里への道を開いてくださるだろう」
 目を伏せ考えるそぶりのあと、青年はうなずいた。
「そうか。それなら、場所さえ教えてもらえれば、貴方の手をわずらわせる必要はないと思う」
 上げられた真剣な面が、まっすぐにセイロンを見つめた。
「何より、俺のことよりも……あの子のそばについていてやってほしいんだ。俺のあるじはああ言ったが、彼女は人間だろう? 貴方は、彼女の護衛獣なんじゃないのか」
 意外な言葉にセイロンはまばたきをした。なるほど、はたから見ればそうなるのか。
「……いや。店主殿に、我を使役できるほどの召喚術の心得はないよ。あったところで、誓約でもって他者を縛ることを望みはすまいて。おぬしの言うとおり、その身を守護してはおるのだが……まあ、色々と事情があってな」
 不思議そうな顔をしたが、青年は重ねて聞いてはこなかった。
「そもそも、おぬしを逃がしたいと言い出したのは店主殿なのだよ。それゆえ、我としてもおぬしをきちんと里まで送ってやりたいと思っておったのだが……」
 確認をこめて向けたセイロンの視線に、青年はしっかりとうなずいた。
「ならば、またおぬしのことばに甘えさせてもらうとしよう。我も、今の店主殿を一人で残していくのは気がかりでならぬのでな」
 備えつけの書机から紙を出し、里への道筋を記す。セイロンの背後で、青年がほっとしたように息を吐く気配がした。
「ああ、そうしてくれ。騒ぎにまぎれていなくなっていた、ということになるのなら……すぐにでも身をくらませたほうがいいんだろうな。あの子に一言礼を言いたかったが、……いや。俺が顔を見せたらおびえさせてしまうか」
 セイロンは、書きあがった地図と包んだ糧食を青年に手渡した。
「それはないと思うが、まだ寝こんでおるのだよ」
「そうか。……では、貴方から伝えておいてほしい。助けてくれて……それから、なつかしい味の食事をありがとう、と」
 切ない笑顔で告げて、青年は深々と頭を下げた。
「確かに承った」
 立ちあがった青年の大きな体が、窓枠を飛びこえそのまま駆けていくのを、セイロンは静かに見送った。


「おーい、セイロン」
 扉に臨時休業の札をかけ、店内に戻ってきたところで、奥からグラッドの苦りきった声がした。縛りあげた男を引いて歩いてくる。
「こいつなんだが、何か術をかけてあるのか? 事情聴取をしようにもうんうんうめくばっかりで話にならないぞ」
 問われて、セイロンは手を打った。
「おお、そうなのだよ。一生このままにしておいてやりたいところではあるが、グラッド殿の職務に差し支えるとあらば、まあいたし方あるまいな」
「おい、わざとそのままにしてあったのかよ……」
 苦笑したグラッドが、うめいている男をこちらへ突き出してきた。ため息をついて、かけてあった呪縛を解く。
 しばらく、男は苦しげに息をついていた。
「……っ、よくも……!」
 ようやく頭を上げ、憎しみを込めた目でにらんでくる男をセイロンは冷たく見つめ返した。
「このような外道の弁解など、聞いてやる必要もないと思うがね」
 男が、己に縄をかけてたたずむグラッドに険しい声音を向けた。
「あんた、帝国軍人だな。召喚獣の言うことを俺のことばよりも信用するのか?」
 グラッドが冷淡なまなざしで男を見やった。
「一応、聞こうじゃないか。年端もいかないこの店のあるじを襲った犯罪者の言い分にせよ、調書は取らなきゃならんからな」
「あんたは知らないかもしれんが、ここのあるじとやらは人間じゃないんだ。はぐれだぞ。まずあの娘をしかるべき場所へしょっぴくべきなんじゃないのか」
「己の所行をそんな虚言で言い逃れしようって腹か」
 片目をすがめて男を見ていたグラッドが、淡々と告げた。
「フェアの身元ははっきりしてる。彼女はこの町で生まれ育ち、帝国法の庇護を受ける権利を持ったれっきとした帝国の民だよ。誰に聞いたって同じ答えが返ってくるはずだ。この店のあるじは、心のこもったとびきりうまい飯を食わせてくれる、この町自慢の料理人だってな」
「な……」
 怒りで顔を朱に染めた男にかけた縄を、ぐいと乱暴にグラッドが引いた。
「まあいいさ。続きは駐在所でゆっくり聞いてやる。……それじゃセイロン、フェアを頼む」
「ああ」
 うなずいてから、セイロンは思わずことばを継いでいた。
「……我がついていながら、すまなかった」
「いや、大事に至らなかったのはあんたのおかげだよ。ありがとな」
 笑みに似たかたちにひとみをゆがめ、かぶりをふって、グラッドは宿を出て行った。


 午前のまだ弱々しい陽光が、がらんとした食堂に差しこんでくる。
 白い光のなかで、セイロンは小さく息を吐きだした。我ながら力の入らない足取りで娘の部屋へと足を向ける。
 近くまできたところで小さな悲鳴が耳を打って、あわててセイロンは扉を開けた。
「店主殿!?」
 目に映ったのは、変わらず寝台に横たわる娘の姿だ。
 枕に沈んだ頭が、なにかを拒むようにわずかに揺れている。
「……や、……いや、やめて」
 聞く方の胸が痛むようなおびえた声が、小さなくちびるからこぼれ落ちた。そのまぶたは閉ざされたままで、目を覚ました様子はない。
 とっさに動けずに、セイロンは娘の悲痛な声を聞いていた。
「………やだ……放して……っ」
 もがくように伸ばされた指は、けれど何もつかむことなくあきらめたようににぎりこまれる。後はもう、ことばにならないすすり泣きだけが静かに部屋を満たした。
 なかばよろめくように、セイロンは寝台のそばへと寄った。床に両のひざをつく。
「……フェア」
 たまらず、にぎられた小さなこぶしを手に取った。
 指先が白くなるほどにぎりこまれたそれを、力を込めて、一本一本はがしていく。そうして己の指を割りいれて、強くにぎりしめた。
 引き倒され、恐怖のただ中にあった時もそうだったのだろうか。
 うなされて口にしたことばは拒絶のそればかりで、助けてとは一言も言わなかった娘に、空虚な悲しみと、理不尽な憤りがこみあげる。
 こんな時でさえ、己を救ってくれる何者かをそなたは思いつけぬのか。
 泣きたいような気持ちで、娘の手を口もとに押しいただいた。
 剣を取ることでところどころかたくなった皮膚、かすかな傷の跡。色をうしなった白い爪に、すくんだ指先。冷たくひえた手の甲を、もう片方の手でさすってやる。何度も、何度も、続けているうちに、娘の指先がわずかに血の色を帯びた。
 おずおずと、弱い力でにぎりかえされる。セイロンは己の指にいっそう力を込めた。
 ふうっと、娘が静かに息を吐いた。閉ざされたままのまなじりから涙が伝う。
 その手を両手でつつんだまま、セイロンは娘の上に身をかがめた。目もとに、こめかみにくちづけ、こぼれ落ちるしずくをぬぐってやる。
 娘のもう片方の手が、力なくセイロンの胸もとをつかんだ。引きよせようとするその手に、一瞬迷ってから、セイロンはひざを上げた。靴を蹴りおとし、そのまま体を寝台の上に乗りあげる。上掛けの上から彼女のとなりにそっと身を横たえた。
 かすかなふるえが伝わってきた。片手は娘の手をにぎったまま、もう片方の腕でちいさな体を抱きこみ、背中をなでてやる。
 どれほどの間そうしていただろうか。セイロンの手のひらの下で、こわばった体から徐々に力が抜け、呼吸がおだやかになっていく。かすかな吐息が、間近に寄せた前髪をくすぐった。
 敷布にやわらかく散らばる銀の糸、幼子のように安心しきった寝顔が、セイロンのほおにすり寄せられる。甘い匂いが鼻先をかすめた。
「すまぬ、フェア……」
 ささやいて、セイロンは小さく息を吐いた。
 年の離れた、いとしい姪御のように思おうとしていた。そして娘が何より求めているのは、そのような肉親の情愛なのだともわかっていた。その気持ちも、けして偽りなどではなかったのに。
 男に押さえこまれた娘を見た時に己の腹を灼いた熱は、けして兄が妹に向けるようなそれではなく、けれど、抑えこまねば、気づかなかったことにしなければならない感情だ。
 己の思いをこらえて、分を超えた思慕などなかったことにして――あるべきように振舞うことには、慣れている。
 セイロンは、娘を抱く腕に力を込めた。
「……我は、そなたの幸せを願っておるよ」
 たとえ、腹の底にくすぶるこの火種の消えることがないのだとしても、それだけは昨日までの己と変わることなく、この身のうちにある真実なのだから。

 窓辺から、やわらかな陽のひかりがあふれ、降りそそぐ。
 その日ざしに似たぬくもりを腕のなかに、じりじりと灼く熱を体の奥に灯したまま、セイロンはひとみを閉じた。

 幸せに、どうか幸せに。
 それだけを、ただ、願う。





fin.

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