■  翡翠の庭  ■



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 木洩れ日が、閉じたまぶたの上でゆれている。
 耳をくすぐるのは葉ずれの音と、それから。
「もうもうもうっ、いいかげん起きてくださいですよ、シマシマさん〜!」
 大樹の中ほどにある枝で、ひとり午睡を決めこんでいたヤッファは、うっすら目を開けた。
 狭い視界の真ん中で、妖精が小さなこぶしをにぎって力説している。
「マルルゥ、困ってしまうのですよっ」
「……あのなあ、マルルゥ」
 ヤッファは物憂く片耳をかいた。
「ひとが気持ちよく休んでるってのに、なんだってそう邪魔ばっかりしやがるんだ?」
 あくび混じりに、続ける。
「今日は午前いっぱい、おまえにつきあって仕事してやってたろうがよ…」
 いいかげん勘弁してくれ、とぼやけば、妖精はついと鼻先へ飛んできた。ぴしりと、ほそい指を突きつけられる。
「だからっ、さっきから言ってるじゃないですか。先生さんのお茶会に、シマシマさんもいっしょに行くですよって」
「だから、オレも言っただろうが…おまえひとりで行ってこいって」
「シマシマさんってば、どうしてそんなこと言うですかぁ? 先生さん、がっかりしちゃいますよう」
 半ばべそをかくような声に、ヤッファは苦笑した。
「あのな。オレまで押しかけなくたって、あいつのとこにゃあ山ほど客が来てるだろうさ」
「でもでもっ」
 もの言いたげな妖精に、ヤッファはかまわず目を閉じた。しっし、と手をふってみせる。
「ううぅ……シマシマさんの、わからずやーっ!!」
 埒があかないと知ったか、妖精は小さな身体でせいいっぱいの憤慨を主張して、きらりと飛びさっていく。ヤッファはやれやれと息をつき、大樹の幹に背中をあずけた。


 小一時間ほど経ったか。まどろみの淵をかすめた動くものの気配に、ヤッファは薄目を開けた。どうやら、こりずにマルルゥが戻ってきたらしい。
 知らぬふりをして、また目を閉じかけて。
「ヤッファさん?」
 ひかえめな呼び声に、ヤッファはぎょっと身を起こした。
 自分が身をあずけた枝から、下をのぞきこむ。
「あ。よかった、起きてたんですね」
 二つほど下の枝からにっこりと見上げてきたのは、紅い髪の娘だった。
「な、…アティ?」
 船で皆と茶を飲んでいるのではなかったか。いやそれ以前に、どうやって登ってきたのか。
 ヤッファは、唖然として問うた。
「なんだってあんたが、こんなところにいるんだよ」
 娘はすこしばつの悪そうな顔をした。
「やっぱり、お休み中に押しかけてきちゃ、ご迷惑でしたか?」
「や、…いや、そんなことは、ねえけどよ」
 ぱっと見上げてくる表情が明るくなる。
「よかった! いま、そっちに行きますね」
 おい、と止める間もなく娘は太い幹へと抱きついた。見れば、帽子も外套も、はては長靴まで脱ぎ捨てた軽装だ。まさか、人の娘がここまでよじ登ってきたのか?
 まもなく、意外に危なげのない様子で、娘はヤッファのところまでたどりついた。
「こんなところにも、ヤッファさんのお昼寝場所があったんですねえ」
 感心した口調で言ってから、娘はうかがうように首をかたむけた。
「ええと…おとなり、いいですか?」
 驚き冷めやらぬままうなずいたヤッファの脇を、上に張りだした枝をつかんで娘は器用にすり抜けた。白い素足がぺたぺたと木肌を踏んで、少し枝先の、ちょうど二つに伸びて分かれたところにうまく腰を下ろす。
 ふう、と息をついた娘にヤッファはつぶやいた。
「…まさかマルルゥ以外に、こんなところまで登ってくる物好きがいるたぁ、思わなかったぜ」
「あはは、けっこう大変ですよね」
 言って、娘は屈託なく笑った。
「私も、枝が離れているところではゴレムやポワソに手伝ってもらっちゃいました」
 ヤッファは苦笑まじりに息を吐きだした。
「それで?」
 なんとなく答えはわかっているような気もしつつ、一応たずねてみる。
「何だってあんたはそんな苦労してまで、こんなところに来てるんだよ」
「もちろん! ヤッファさんに、私の自信作を食べてもらうためです」
 ほがらかな笑顔で断言されて、ヤッファはやれやれと頭をかいた。
「…あっちは放ってきちまってよかったのか? あんたの茶会だろうに」
「私の、というか…」
 娘は首をかしげた。
「私はただ、お茶菓子を用意したってだけなんですよ。みなさんめいめいに楽しんでましたし、抜けてきてしまっても別にだれも、気にしてないと思いますけど」
 この島でだれより皆の耳目を集めている娘は、たいがい自覚のないことを言いながら、腰のベルトにごそごそと手を回した。つってあったらしい水筒を二つと、小ぶりのバスケットを引っぱり出す。
「ちゃんと、ほら、ヤードさんおすすめのお茶もつめてきたんですよ?」
 娘が満面の笑みで差しだす。
「ああ、そりゃ…ありがとよ」
 ヤッファは腕を伸ばして、バスケットと水筒の片方を受け取った。
「一番摘みっていうものだそうで。ゲンジさんが育てているお茶の木の葉の、柔らかい新芽だけを使って…」
 あいづちを打ちつつ、バスケットのふたを結わえたひもをほどく。
 ふたを開ければ、焼き菓子の甘い匂いがふんわりと広がった。
「いろいろ作ったんですが、手で食べやすそうなのをと思って」
 いったん茶の説明をおいて、娘はヤッファの方へと身を乗りだした。
「リグドのジャムを入れた、スコーンなんですけど。村にいたころからよく作ってましたから、けっこうこういうのは得意なほうなんですよ」
「ほう? そりゃ、楽しみだな」
 ヤッファは、つぶさないよう気をつけながら、菓子をひとつつまみ上げた。口の中に放りこむ。思ったよりしっとりとした舌触りだった。バターと果実の風味が強い、素朴な味だ。
「どうですか?」
 咀嚼しているのをやたら真剣な目で見つめられ、ヤッファはごくりと菓子を飲みこんだ。
「…うまいんじゃねえか? 変に凝ってなくて」
「よかった、ヤッファさんの口にあって」
 娘の顔に、ほんわりとした笑みがひろがった。
「お菓子作りなんて、実はとってもひさしぶりだったので」
 受け取った籠を差しだせば、ほそい指先で、娘も菓子をひとつ取りあげる。
 はしをかじって、娘は幸せそうにほおをゆるめた。いい大人が、菓子ひとつでここまでうれしそうな顔をするものか、ふつう?
 まあそれもこいつらしいかと、ヤッファは小さく笑いをもらした。
 もぐもぐと口もとを動かしながら、問いかけるような視線を投げてきた娘に首をふる。
「や、なんでもねえ。…しかしよ、今日のはまたずいぶん急な話だったな」
「んっ……なにがです?」
 口の中の分を飲みこんで、娘はきょとんと問いかえした。
「いやな、どれだけ菓子を作ったんだか知らねえがよ。なんでまた、そんなことを思いたったんだ? あんたも、いろいろ忙しい身だろうに」
「ああ、実はですね」
 合点がいったように、娘はひとつうなずいた。どことなくうきうきとした調子で言う。
「これは、ナップくんの特訓の成果なんですよ」
「はあ?」
 ヤッファは眉をひそめた。ちいさく娘は笑ってみせる。
「ちょっとね、前から気になってはいたんです。あの子、ずいぶんと向こう意気が強いところがあって。そのせいか、戦いではすぐに前のめりになって、まわりが見えなくなっちゃうことがあるんですよね」
「そうさなあ」
 思い返せば、たしかにその気はある。アティがうまく補佐しているようだが、あの子ども自身にもなまじ力があってなんとかなってきただけに、なおさらだろう。
「だがまあ、あの歳であれだけやれりゃあ、ケチをつけるほどのことでもねえと思うがな」
 娘はこくりとうなずいた。
「私も、だからあの子にそう言ったんです。そういう癖があるけど、これから少しずつ気をつけていってくれればいいですって。でも…」
 目を伏せて、娘はくちびるをほころばせた。
「そんなふうに、甘やかされてる場合じゃないだろって。自分は今、強くならなくちゃいけないんだって言ったんです。ナップくん」
 ヤッファはかるく眉を上げた。
「ほう、いっちょまえに言うじゃねえか」
 ナップがそうしゃかりきになる理由が、目の前の娘にあるのだろうことを思えば、なおのこと。
「ええ、私もほんとうにうれしくって。それで、少々荒療治な特訓をしてみたんですよ」
 ぴっと娘は指を立ててみせた。にっこりとほほえむ。
「私がおもいきりリグドの実を投げつけるから、それを避けながら、私に一太刀浴びせてみせなさいって」
「そりゃあ、また…」
「ナップくん、最後にはアザだらけになっちゃったんですけど。でも、わかってほしかったことは、ちゃんと身につけてくれたと思います」
 本当にうれしそうに言うのを見て、ヤッファは口元をゆるめた。
「あんたはナップのことを、大事にしてるんだな」
「そりゃあ、そうですよ。なんてったって、ナップくんは私の初めての生徒なんですから!」
 誇らしげにうなずいて、娘は目をほそめた。
「…で? その特訓の後に残ったもんが、こいつに化けたってわけだ」
 ヤッファは手を伸ばし、二つ目の焼き菓子をほおばった。
「ええ、生で食べるにはちょっと痛みがひどかったので…パイに入れて、チップスにして、甘露煮を作って。ああ、ジュースにもしましたね。それから…」
 娘はひとつひとつに指を折って、あとはなんだったかなと考えこんでいる。
「よくもまあ、そこまで気合い入れてやれるもんだな」
 呆れ半分、感心半分でヤッファはつぶやいた。娘はちょっとはにかむようにほほえんでみせた。
「マルルゥやフレイズさん、ジャキーニさんにも、蜂蜜ですとか小麦粉ですとか、色々材料をわけてもらっちゃったので。ちょっとはりきってみました」
 聞いているだけで、しまいには胸焼けがしてきそうだ。
「まあ、あまり無理はしねえこったな」
「ええ、もちろん」
 言ったヤッファに、こういうときに限ってはあまり信用ならない笑顔で娘はうなずいた。



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