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 さらさらと、風に若葉のすれ合う音が耳をくすぐっていく。ヤッファは水筒から茶をすすった。
 眺めやれば、娘は菓子を手に、ぼんやりと揺れる木の葉を見つめていた。
 すんなりと伸びた足が、枝の下で、ぶらぶらとこどものように揺れている。透けるような白い肌に、爪先とかかとだけが、うすい桃色をしてやわらかそうだ。
 ふと、娘が口を開いた。
「…ここはとても、気持ちがいいですね。ヤッファさんのお気に入りの場所なんでしょう?」
 いつのまにやら見入っていた自分に気づいて、ヤッファはとっさに口ごもった。
「あー、まあ、…昼寝にゃあうってつけだからな」
「あはは、それ、同感です」
 言ってから、娘は残念そうに続けた。
「でもヤッファさんならともかく、私がこんなところでうたたねしたら、うっかり転げ落ちちゃうでしょうね」
「なんなら、転がっていかないようにオレが抱えててやってもいいぜ?」
 軽口をたたけば、娘のほおがうっすらと赤らんだ。
「もう、からかわないでくださいよ。…たしかにヤッファさんの上なら、とっても寝ごこちはよさそうですけど……」
 投げ出していた足先を、ほっそりした手で撫でられて、ヤッファは尻尾をぴくりと揺らした。
「おいこら、アティ」
 いきなりなにしやがる、と毒づけば。
「…ふふ、お返しです」
 楽しそうに言って、娘はヤッファの足の甲をぺたぺたとさわりつづけている。
「やっぱり、この手ざわりが、たまりませんねえ」
 どことなくうっとりとした口調に、ヤッファは苦笑した。ぱたりとひとつ、尾で幹を打つ。
「このあたりなんか、ちょっと硬いですけど、すべすべで…」
 言いながら、くるぶしをほそい指で遠慮なくまさぐられて、さすがにヤッファは顔をしかめた。
「おい、アティ、そのへんで…」
「あっ、でもこのくぼんだところはちょっとやわらかくて、ふわふわしてますね」
 まったく聞いちゃいねえ。
 ヤッファは空をあおいだ。
「うーん…こんな足の先まできれいに毛並みがそろってるなんて、これはもう芸術の域ですよ」
「おいおい、おおげさだな」
 ため息まじりにあきれて言えば、娘は頭を上げた。大真面目な顔で言う。
「そんなことないですよ。常々、ヤッファさんはほんとうにきれいだなあって思ってたんです。身を起こす時の動きとか、陽にあたるときらきら色をはじく毛並みに、ふんわりしているたてがみも」
 ヤッファはぶるりと身体をふるわせた。
「勘弁してくれ…なんか、背筋のあたりがぞわぞわしてきやがる」
 本当のことなのに、と娘は口をとがらせる。と、下からさわりと吹き上げた風に、かすかな鉄さびの匂いが混ざって、いまだ自分の足を放していなかった手へとヤッファは視線を落とした。
 ひょいと、ヤッファは娘の腕を取った。そのまま顔を近づける。
「あのう…?」
 娘の不思議そうな声が聞こえた時には。
 半ば引き寄せられるように、ヤッファは娘の手首に舌を這わせていた。ゆっくりと舐め上げる。
 一瞬、ほうけたような間があって。
「……ッ、や、ヤッファさん!?」
 我に返って、ヤッファは顔を上げた。
「な、な、なっ、な…!?」
 娘は耳まで紅く染め上げて、口をぱくぱくさせている。
 まんまるに見開かれたひとみと目が合って、ヤッファはあわててつかんだ腕を解放した。
「あー…悪ぃ」
 もう片方の手で、取り戻した手首をぎゅっとにぎりしめた様子に、気まずくヤッファは頬をかいた。
「その…登ってくる時、どこかでひっかけたんじゃねえのか? 血ぃ出てたぞ」
「えっ、あ、そっ、そうですかっ」
 離れた腕を幸いと、娘は真っ赤な顔であとずさろうとした。
「お、おい、こらアティ!?」
 後ろ手についたその指が、枝をつかみそこねて宙を薙ぐ。がくん、と娘の体が沈んだ。
「きゃあっ!?」
「……ッ!」
 とっさに伸ばした手で腕をつかんだ。ぐいと引き寄せる。いきおい、自分の上に落ちてきた体を、ヤッファは力任せに抱きしめた。
 しばらく、お互い固まって動けない。長いような、短いような沈黙の後。
「………し」
 ごくりと、つばを飲みこむ音がした。
「心臓……止まるかと、思いました」
「そりゃ、こっちの台詞だぜ…」
 ヤッファはかすれた声であえいだ。
「ヤ、ヤッファさんが、おどろかせるからいけないんじゃないですか…ッ」
 驚きと緊張で、娘の大きな目にはうっすら涙が浮かんでいる。
「あー…」
 ヤッファは、息を吸って、吐きだした。
「いや、その、つい、…あんたを脅かすつもりじゃなかったんだがよ」
「ううー…っ」
 小さく、うめくような声があがる。唇をかみしめて、娘は大きく息を吸いこんだ。せわしなく長いまつげが上下して、にじんだ涙をふりはらう。
「あの、ですね」
「お…おう」
「もう、だいじょうぶですから。その。手、……放してもらって、いいですか?」
 気づけば、思い切り抱きすくめたままだった。押しつけられている身体のやわらかさを意識して、うっとヤッファは詰まった。
「す、すまねえ」
 そっと腕をゆるめると、よいしょ、と娘は身を起こした。ぎこちない動きで、元の位置へとからだを落ちつかせる。
『…………………』
 なんとも言えない空気が流れた。
「あのな」 「あのっ」
 二人して顔を見合わせる。
「な、なんでした?」 「…んだよ?」
 しばらくの沈黙の後。どちらからか、小さく笑い声が漏れた。
「なんか、変に、緊張しちゃったじゃないですか」
「……おたがいな」
 くすくす笑いながら、またにじんだ涙を娘は指先でぬぐった。すう、っと深呼吸をひとつ。
「ええっと。ごめんなさい、ヤッファさん。ありがとうございました」
「うんにゃ、オレこそ悪かったな」
 どう考えたって、年頃の娘相手にするふるまいではない。…のだが、気づけば、やってしまった後だった。
「いえ、そんな…」
 やっと赤みのおさまってきた顔色で、娘は口を開きかけ、はっと目を見開いた。
「……って、ああーっ! お菓子!」
 あわてたそぶりで枝下へと身をかがめる。
「おい?」
 突然の奇行に、怪訝な思いをこめて問えばぽつりと悲しそうな声がかえった。
「落っことしちゃいました……」
「あ、あのなあ…」
 娘はまだ、下をのぞきこんでいる。
「食い意地はったガキかよ、あんたは」
 呆れて言えば、娘は未練がましくつぶやいた。
「だって、もったいないじゃないですか」
 ヤッファは苦笑した。
「なあ、いいかげん、戻っちゃどうだ? 向こうになら、食い物も残ってるかもしれねえぜ」
「うーん、でもですねえ…ヤッファさんのいるところが一番、居心地がいいんです」
 いまだ下を向いたまま。さらりと言われた言葉に、ヤッファは一瞬ほうけた。
「……はあ?」
 自覚のない口調で、娘は続けた。
「だってほら、ヤッファさんのサボり場所って、どこもすてきなところばっかりなんですもの」
「アティ…あんたなぁ」
 実は、意識してやってんじゃねえか?
 脱力したヤッファを知ってか知らずか、顔を上げた娘はにっこりと微笑んでみせた。
「そうでなくたってこの島は、どこも大切な思い出でいっぱいなんですけど、ね」
 娘は目を細めて、木の葉の間から見える景色を眺めた。同じように見やれば、眼下の村は濃淡さまざまな緑に萌え、その命のかがやきでもって目を惹きつける。
 娘の白い横顔に、ゆるやかに風が吹き寄せた。やさしいひかりの中、まわりを包むように茂った葉のすべてが、宝石のように輝きさんざめく。
「……本当に、きれいです」
 そっと、娘が息をついた。
「ああ、…そうだな」
 ヤッファは、ゆっくり目を閉じた。
 美しすぎて、時折、息が苦しくなる。
 ああ、これが。あいつが狂おしいほど夢見て、守ろうとした楽園だってのに。
 願った当の本人は、もうどこを探したっていやしないのだ。

「……ヤッファさんが」
 しばらくの沈黙の後。ぽつりと、娘がつぶやいた。
「何をおいてもこの島を守りたいって思う気持ち、わかる気がします」
 ふりかえってほほえむ。風に、さらさらと紅い髪がながれて溶けた。
「私も、この景色を、ここに住むみんなの、…貴方の笑顔を守るためなら、なんだってできちゃうような気がするんですよ」
 ざわり、とひときわ大きく、大樹がざわめいた。その音をどこか遠くに聞く。
「……ヤッファさん?」
 娘がヤッファの顔を見上げていた。伸ばされたちいさな手が、そっとほおに触れる。
「どうか、したんですか?」
 困ったように笑んで、娘はヤッファの顔の線をたどった。
「眉がへの字に下がってますよ」
 ヤッファは、娘の手に自分のそれを重ねた。
「……なあ、アティ」
 誰かによく似た、そのほほえみ。
「なにかと引きかえの笑顔なんて、オレはごめんなんでな」



 送ろうかとの申し出を断って、娘はまた自力で枝を降りていった。
 茂った緑の葉に隠れ、紅い髪がちらちらとゆれている。その、花のように、鮮血のようにあざやかな色。
 ヤッファは、ふと自分の口もとに手を当てた。
 舌先に、かすかな鉄の味が残っている。知らず反芻したそれが、ふいにひどく、甘やかなもののように感じられて。
「おいおい…やばいだろ、それは」
 うめいて、ヤッファは空をあおいだ。そのまま、幹に身体を押しつけ目を固くつぶる。
 まぶたの裏で、ヤッファは娘の姿を思い浮かべた。
 そのくちびるからこぼれるのは、きれいな言葉ばかりで。
 菓子よりも果物よりもなお甘ったるく。この世のなかの純粋で、こわれやすいものばかりつめこんでできあがっているような、娘。
 ヤッファはうすく目を開けた。木洩れ日が差し入って、やたらとまぶしい。ヤッファはふたたび目を閉じた。

 今度こそは、もう、あの手を失いたくないと思った。






fin.


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