■  紅いゆび  ■



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「あ、あれっ?」
 絡んだダークグリーンの毛糸に、アティは思わず声を上げた。
 ランプのひかりのもと、うまく落ち着かせようと編み棒を動かすけれど、かえって編み目がゆがんでしまう。
「あらあら、センセってば」
 手もとから目を離せないアティの視界に、すっと白い指が入ってきた。
「だめよ、そんなひっぱっちゃあ」
 指先は、ちょいちょいと器用に毛糸をほどき、ゆがみかけたところを整える。アティは大きく息を吐いた。
「…ありがとうございます、スカーレル」
 いつのまにやらひたいに浮かんでいた汗を、そで口でぬぐう。
「編み物って、なかなかむずかしいものですね。ごめんなさい、毎晩お時間をとらせてしまって」
 顔を上げれば、のぞきこんできていたスカーレルから、にっこりと笑みが返ってきた。
「いいええ、センセになにか教えるなんて、めったにできることじゃないものね。こっちも楽しませてもらってるんだから、気にしなくていいのよ」
 アティも釣られて微笑みかえした。
「じつは私も、けっこう楽しいなって思ってるんですよ。縫い物は、そこそこできるつもりだったんですけど。ぜんぜん勝手がちがってて、新鮮です」
「センセは、あったかい地方の出身なんでしょ? それじゃあ、覚える機会もなくって当然よね」
 言いながら、スカーレルは自分の編み棒へと手を戻す。
 とたんに、魔法のように編み目がつむがれていくその手もとに思わずアティは見とれた。
「ほんとうに、スカーレルは上手ですよね…こんなの、どこで習ったんです?」
 一瞬だけ、よどみなくひらめいていた針先が止まった。顔を上げないままで、からかうような声音が返る。
「…やあねえセンセ、それは乙女のヒミツ、ってやつよ」
「な、なるほど…?」
「それにおほめの言葉は嬉しいけれど、センセだってなかなか筋がいいわ。初挑戦だなんて、とっても信じられない」
 ふふふ、といたずらっぽく含み笑って、スカーレルはつづけた。
「手取り足取り教えてあげようと思ってたのに。センセったら手のかからない生徒で、ちょっとざんねんね」
 アティは思わずくすりと笑みを漏らした。
「出来の悪い子ほどかわいいのに、ってことですか?」
「あらあ、それってセンセの経験に基づく発言かしら」
 問い返されて、アティはあわてて首をふった。
「そんな、とんでもない。ナップくん、勉強なんて嫌いだって言ってたのに、最近はとってもがんばってくれてるんですから!」
 スカーレルの、その切れ長の目がかるく見はられた。からかうような表情が、含むところのない微笑みにかわる。
「ふふ、冗談よ」
 ゆっくりと目をほそめて、ささやくように続ける。
「そうよね。あの子、アナタの役に立ちたくって、認めてもらいたくって、一生懸命なんだもの。…見てて、ほんとに一途でかわいいったら」
 アティはにっこりと微笑んだ。編み掛けのセーターに目を落とす。
「ええ、弟がいたら、きっとあんな感じなんだろうなあって思います」
 すこし不ぞろいな網目を、指先でそっと撫でてみる。
「私は…その、ひとりっ子だったんですけど。村では兄弟がたくさんいる家が多くって…そういうのに、ずっとあこがれてたんです」
 声が多少沈んでしまったのを自覚して、アティはことさら明るく笑った。
「だから、こういうふうに何か作ってあげるっていうのが楽しくて」
「…ねえ、センセ?」
 やさしい声が、そっと耳にすべりこんだ。向けた視線の先で、スカーレルがほほえむ。
「アタシもおんなじ気持ちなのよ? かわいい妹ができたような気がしてるの」
 だから、と伸びた白い指先が、するりとほおを撫でて離れた。
「センセは自分でなんでもやっちゃうほうだけど… もっといろいろ、頼ってくれたほうがうれしいわ」
「ええと、その…」
 間近で見せられたあでやかな微笑みに、アティはおもわずどぎまぎする。
「それとも、そんなこと言われても迷惑かしら?」
 少し悲しそうに言われて、あわててアティは首をふった。
「そ、そんなことありません!」
「本当に?」
 こくこくとうなずく。
「迷惑だなんて! ほんとうに嬉しいです、スカーレル」
「あら、よかった。それじゃあセンセ、そういうことで」
 ころりと表情を明るくして、スカーレルは両手を伸ばしてきた。軽くほおをはさまれる。
「…いいわよね?」
 ふふふ、と含み笑う相手に、おもわず胸にかかえた毛糸の束ごと体を引きかける。
「え、ええっと、スカーレル?」
 とたん、スカーレルの手にかるく力が入った。
「そんな顔したってダーメ、逃がさないわよ。なにも取って食おうってわけじゃあないんだから」
「あの、いったい何を…?」
 非常に楽しげなスカーレルに、おそるおそるアティは問うた。
「お化粧よ。お・け・しょ・う」
 スカーレルのしなやかな手が、ぴたぴたとほほをたたいた。
「センセったらこんなきれいな顔をしてるのに、ぜんぜん洒落っ気がないんだもの。つまらないったら!」
「つ、つまらないって、そんな」
「うふふ、前からやってみたかったのよぉ。大丈夫、センセはただアタシに全部まかせて、おとなしーく座っててくれるだけでいいんだから」
 口をぱくぱくさせているアティに、スカーレルがにっこりと笑んだ。
「お姉さんのおねがいですもの、…もちろん聞いてくれるわよね?」
「え、あの、その」
「ね、…センセ?」
 なぜか泣きそうになりながら、アティはこっくりうなずいた。


 ランプの揺らめく灯りが、閉じたまぶたの裏に赤く映りこんでいる。
 水おしろいの匂いが鼻先をくすぐって、ひやりと触れた冷たい感触に思わずアティは眉を寄せた。
 濡れたやわらかな海綿が、丁寧な動きでほおを撫でていく。
「…ねえ、センセ?」
 突然、なめらかな低音が耳に滑り込んだ。
「は、はい?」
 思わず返答が裏がえる。気にした気配も無く、スカーレルの声は続いた。
「センセは、どうしてお化粧してないの?」
 肌をくすぐる感触を気にしながら、アティは答えた。
「うーん、軍にいたときには、必要のないものでしたし」
「式典とか、公式な場では? ああほら、士官教育の一環で、正式な会食とかにも行かされたって言ってたじゃない」
「ああ、そういうときだけ、友人に貸してもらってたんですよ。…お恥ずかしい話なんですけど、そんなところまでまわすお金がなくって」
 ちょうどあごのあたりをなぞられて、いきおいぼそぼそとした調子になる。
「家庭教師を始めるときに、さすがに必要かと思ってすこしだけそろえたんですけど…」
 船上に持ちこんだ荷物は、今ではすべて海の底。
「ああ、そうよね…ごめんなさい、気が利かなくって」
 今からでも自分のものから見つくろって、とでも言い出しそうな雰囲気に、あわててアティは首を振りかけた。
「気にしないでください、もともと、私には縁のない…」
「ああっ、センセ、動いちゃダメよ!」
 焦った声に、身をすくめる。
「ご、ごめんなさい」
 くすりと苦笑する気配がした。
「そうねえ…たしかに、お肌もこんなすべすべで、くちびるだって、紅を引いたみたいにきれいな色だし。センセなら、素材のままで充分勝負できるもの。そんなに、気にしないのも道理よね」
 まぶたの上を撫でる刷毛のくすぐったい感触に、アティはおもわず眉を寄せた。
「そ、そんな…」
 若いっていいわねえ、と茶化す口調に、かちゃかちゃと化粧道具を持ちなおす音がかさなる。
 ふんわりと、やわらかな羽毛のようなものがほおに当たった。
「頬紅はうすめにしておくわ。センセは色白だから、あんまり濃くするとピエロみたいになっちゃいそう」
 アティはそうっと薄目を開けた。
 びっくりするほど近くに、スカーレルの大真面目な顔がある。なんだか気恥ずかしくて、アティはそのまま目を閉じた。
「はーい、ちょっとあごを上げて」
 言われるまま、アティはかるく顔を上向けた。
「すこし、口をあけてもらえる?」
 つづいたことばに、ぱちりと目を開ける。
「あ、スカーレル、口紅くらいは自分で」
 言いかけたところに、ついとスカーレルの指が伸びた。
 紅を載せた指先が、すうっとくちびるをなぞる。アティは口を半開きにしたまま固まった。
「…って、あの!」
 アティが我に返った瞬間、スカーレルの指がすばやく引っこんだ。
「ふう。できあがり」
「ス、スカーレル…」
「なあに?」
 にっこり微笑まれる。アティは、力無く首を振った。
「いいえ、なんでも… …ありがとう、ございました」



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