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「うわあ」
 化粧台の前に立ち、アティは思わず声を漏らした。
「なんだか、ふしぎな感じです…」
 鏡の向こうから、大人びた女性がおどろいたように目をみはってこちらをのぞきこんでいる。
 ランプの灯りに、ほんのりと影を帯びてけぶる目もと、やわらかそうに色づいたほおを、アティはまじまじと見つめ返した。
「私じゃないみたい」
 つぶやけば、鏡の中で、珊瑚の色をしたくちびるが同じ言葉をなぞって動いた。
「どう、なかなかのできばえでしょう?」
 誇らしげな声とともに、彼女の後ろにスカーレルの姿が映りこんだ。身をかがめてのぞきこみ、ふふふと小さく含み笑う。
「センセは目鼻立ちがはっきりしてるから、ぜったい映えると思ってたのよ。ふだん化粧っ気がない分、効果も倍増ってものよね」
「でも、私が自分でやったときは、ぜんぜんこんな感じじゃなかったですよ?」
 鏡の女性と見つめあったまま、アティはつぶやいた。
「まるで、魔法みたいです…」
「あら、いつも自己評価の低すぎるセンセにそこまで思わせられたなら、アタシも腕を振るったかいがあったわ」
 くすくすと笑いながら、後ろから伸びてきたスカーレルの手が、置いてあった櫛を取った。
「ねえ、ついでだから、髪もすこしいじっちゃいましょうか」
「え、そんな、そこまでしていただかなくても」
 あわてて言った言葉に、茶目っ気のこもったスカーレルの声がかぶさった。
「アタシがやりたいの。いいでしょ?」
 するりと、つややかな飴色に磨きこまれた木櫛が、アティの髪にすべりこんだ。
「さすがに、ちょっと傷んじゃってるわねえ。毎日潮風にさらされてるんじゃしょうがないけど、もったいないわ」
 スカーレルの指先が、もつれたところを丁寧に解きほぐす。少しだけ気恥ずかしく、アティはうつむいた。頭皮をかすめる櫛の歯が、くすぐったくて気持ちがいい。
 アティはそっと、椅子の背に身を預けた。
 身支度をだれかの手にゆだねるなんて、もうどれくらいぶりのことだったろう。まるで自分が、ほんの小さなこどもに戻ってしまったような、そんな感覚。
 いつのまにか、ぼうっとスカーレルのするに任せていたアティの耳に、ふっと、ため息めいた吐息が触れた。
「センセみたいな人にとっては…そうねえ、たしかに、化粧は魔法なのかもしれないわね」
 独白のようなつぶやきだった。アティはわずかに首を上げた。
「ほんとうの自分を包み隠して、その上に、違う姿を作り上げているんだもの」
 鏡にスカーレルの顔は映っておらず、静かな声だけが降ってくる。
「スカーレル…?」
 苦笑するような気配があって、留めるようにかるく髪を引かれる。
「ああ、もうちょっとだから、そのまま、ね」
 ことばとともに、長い指が、耳のわきからひとふさずつ丁寧に髪をすくい上げていく。
 と、頭皮につっぱるような感覚があって、スカーレルが動きを止めた。
「…あら」
 困惑を含んだつぶやきに、アティは目だけを上に上げた。
「どうかしました?」
 肩をすくめる気配が伝わる。
「いやあね、うっかりしてたわ。先に出しておこうと思ってたのに」
 苦笑混じりにスカーレルが続ける。
「センセ、悪いんだけど、ちょっとそこの引き出しから髪留めを出してもらえないかしら? アタシはこのとおり、手がはなせないものだから」
「あ、はい」
 下を向こうとしてから、髪を引く手に思いとどまる。アティは手探りで化粧台の引き出しを開けた。
「センセの髪に似合いそうな、ガラス細工の品があったと思うんだけど」
 それらしきものを探って、手をすべらせる。
 ふんわりとした小切れや、なめらかな木の器、それから。
「これ、かな?」
 指先に、ひやりと何かが触れた。
 つまんで、そっと目の前に持ち上げた瞬間。
 思わずアティの口から吐息がもれた。
「わあ…」
 手のなかにあったのは、なめらかな曲線でできたちいさな香水びんだった。
 サファイアのような、昏く深い青の色ガラスが、ちかりとひかりをはじく。アティは、繊細な作りの小びんをまじまじと見つめた。
「きれいですねえ」
 後ろで、スカーレルが身じろぐ気配がした。少し硬い声が降る。
「……ああ、それは」
 アティはそこで、ふと気づいて首をかしげた。
「あれ? でもそういえば、スカーレルって」
 後ろから、静かな苦笑が届いた。
「ええ、そうね、アタシ香水は使っていないから。これは…ちょっとした、眠り薬みたいなものなのよ」
 ことばとともに、すっと手の中の小瓶を抜き取られる。
 笑い話のように明るい声で、スカーレルはつづけた。
「香水はね、使ってみたいとは思うんだけど。ほら、香りがすると、こっそり忍びよろうにも相手に気づかれちゃうじゃない? どうしても神経質になっちゃうのよねえ。カイルみたいに真っ向勝負だけでやっていけるほど、もう若くもないし」
「スカーレル…」
 言いたいことも、たずねたいこともあったけれど。陽気な装いの裏に、触れれば傷つけてしまいそうな拒絶の気配を感じて、結局アティは口をつぐんだ。かわりに、見つけだした細工物を差しだす。
「…あの、髪留めって、これのことですか?」
「ああ、それよそれ」
 後ろから、ひょいと伸びた手が受けとった。
「悪いわね、きちんと整頓していなくって」
 おどけた調子で言われて、アティはことさら明るく答えた。
「そんなことないですよ。そうですね…ヤッファさんのお部屋みたいな散らかりようだったら、私も困っちゃいますけど」
 スカーレルが、くすりと吐息だけで笑んだ。
「いやあねえ、旦那みたいなものぐさおやじといっしょにしないでちょうだいよ」
 すっと、うしろ頭ですくった一房を留めて。身をかがめたスカーレルが、アティの後ろに映りこんだ。
 にっこりとほほえんで、アティの前髪をととのえる。
「はい、できた。遊ばせてくれてありがとね、センセ」
 アティは、じっと鏡の中のスカーレルを見つめた。その笑顔に、暗く影が落ちて見えるのは、ランプの加減ではきっとないのだけれど。
「いいえ、こちらこそです…スカーレル」
 悲しくなる気持ちをこらえてふり返り、アティはゆるくほほえんだ。


◆       ◆       ◆


「先生さーん! 先生さんはいますかあ!?」
 せっぱつまって呼ばわる声が、廊下から届いてカイルは立ち上がった。
「なんだあ?」
 がちゃりと自室の扉を開ければ、ちょうど目の前を通り過ぎようとしていた妖精が急制動をかける。
「あ! ゲンコツさん!」
「いきなりなんだってんだよ、マル…」
「先生さん、帰ってきてますか!?」
 鼻先に食いつく勢いで飛びきた妖精からとっさに身を引いて、カイルは首をひねった。
「いや、今日は朝一番に出ていって、それっきりだぜ」
 カイルは、マルルゥが飛びこんできた甲板へ続く階段を見あげた。上から差しこんでくるひかりが、夕刻の赤みを帯びて木床を染めている。
「そういや、そろそろ戻ってきてもいい時分だよな」
「そ、そんなあ…」
 とたん、へろりと床に落ちた妖精に、カイルはしゃがみこんだ。
「どうしたよ、マルルゥ。なにかあいつに急ぎの用でもあったのか」
 大きな目に涙をためて、妖精がカイルを見あげた。
「あの、あのですね、マルルゥ、先生さんになにかあったんじゃないかって…」
「…そりゃ、どういうことだ」
 ふるえる声で、妖精はこたえた。
「マルルゥ、お昼ごろに先生さんに聞かれたのです。探している花があるのだけど、どこに生えているか、知ってますかって」
 そうして妖精は、二つ三つほどの名を挙げた。
「どれも、マルルゥのいるお花畑じゃなくて、森の奥のほうに咲いているものばかりだったのです。森の奥は、あぶないのです。おはなしを聞いてくれないような幻獣さんも、たくさんいるのです…だから」
 妖精は、ちいさく鼻をすすった。
「お花をつみに行くなら、シマシマさんなら場所もわかってますから、いっしょに行ってくださいねって、マルルゥ言ったのです。でも、でも、さっきシマシマさんのおうちを訪ねたら、先生さんは来なかったって…」
 そこまで言って、とうとう妖精の目からなみだの粒がこぼれおちた。
「マ、マルルゥが、ちゃんとっ、シマシマさんのところまで、いっしょに行けばよかったのです…先生さん、森で、迷子になっちゃったのかもしれません。もしかしたら、ケガしたり、して…っ」
 ひっく、としゃくりあげた妖精に、カイルはあわてて手を伸ばした。
「おい、泣くなって、マルルゥ」
 かわいらしく結い上げた頭をなでてやる。
「でも、でも…っ」
 涙目で見あげた妖精が、口を開きかけた瞬間。
 ガタンと、甲板から、重いものが倒れる音がした。
 それに女の悲鳴がかぶさって、カイルはとっさに腰を上げた。
 踏みだした足に先んじて、足下にいた妖精があっというまに階段の上へすっ飛んでいく。
「せ、先生さん!?」
 降ってきたただならぬ声音に、カイルも甲板へと駆け上った。
「しっかり、しっかりしてくださいですよう!」
 まず目に入ったのは、大きく崩れた荷箱の山。
「あれ…マルルゥ?」
 その間から、かぼそい声がした。駆けよったカイルがのぞきこめば、木箱に埋もれるようにして、紅い髪の娘が座りこんでいた。
「カイルさんも…」
 おどろいたようにカイルを見あげたその顔は、こころなしか青ざめている。
「おい、どうした!?」
「ええっと、すみません、ちょっと…足がもつれてしまって」
 娘ははにかむように笑んでみせた。ゆるく首をめぐらせて、あたりを見まわす。
「箱、ぐちゃぐちゃになっちゃいましたね。ちゃんと直しますから」
 立ち上がろうとする手を、あわててカイルはつかみ、引き上げた。
「先生さぁん…ちゃんと、帰ってきてくれて、よかったですよう」
「もしかして、私のことを気にして訪ねてくれてたの?」
 泣きそうな顔でまわりをぐるりと飛んだ妖精に、娘は申しわけなさそうな顔になった。
「ごめんね、マルルゥ。心配かけちゃったみたいで…」
「ああ、ほんとにな。どうしたってんだよ、先生」
 ため息混じりにカイルは問うた。忠告を無視してまでひとりで行こうとするなど、彼女らしくない。
 見つめれば、娘は困ったように笑ってみせた。
「まあ、その、…ちょっといろいろありまして」
 立ち上がったその姿を見て、カイルは顔をしかめた。
「しかも何やらかしてきたんだ、その格好は」
 ほつれた外套のすそには泥がはね、ながい髪はぐしゃぐしゃにもつれている。片手にしおれかけた花の束をにぎりしめ、娘はばつの悪そうに眉を寄せた。
「実は、その…」
 口ごもるようにして、答える。
「…森で、ばったりビジュたちに出くわしちゃって、ですね」
「な…!?」
「あ、でも、すぐに逃げてきましたから!」
 絶句したカイルに、あわてた口調で娘は続ける。
「大丈夫です、ほら、このとおり…」
 踏み出そうとしたその足が、がくりと折れた。堅い甲板にひざをつく。
「おい!?」
「あ、あれ…っ?」
 きょとんとした顔で、娘が自分のからだを見下ろした。
「足が、…うごかな…」
 言葉なかばにして、そのまなざしが揺らいだ。
 そののどから、ひゅう、とひとつ不自然な呼吸が落ちた。ぐらりと上体が仰向いて。
 そのまま後頭部を甲板に打ち付けるところを、カイルはとっさに腕をのばして抱きとめた。
「おい、先生!?」
 かるく揺するも、反応はない。のけぞった頭が、カイルの腕のなかでぐらぐらとたよりなく揺れた。
「しっかりしてくれよ……くそっ!」
 とっさにその体を改め、片足のふくらはぎに浅い刀傷を見てとる。ぐったりと白いのどをさらして、すでに意識のないその体を抱えあげ、カイルは立ちあがった。階段を駆けおりる。
「ヤード! ヤード、いるか!?」
 返答を待たず、客人の部屋へとカイルは飛びこんだ。後ろから、妖精のついてくる気配がある。
「どうしました?」
「なによ、騒々しいわねえ…って!」
 おどろいた顔で、召喚師の青年と、彼と話しこんでいた後見人とが腰を上げた。
「帝国軍にやられたらしい。足を切られてる。傷自体はたいしたことねえんだが…」
「彼女を降ろして。…傷口を見せてください」
 けわしい表情で、ヤードが膝をついた。寝台の上、横たえられた娘の足に目を据える。
「倒れる前の様子はどうでしたか?」
 カイルは目をすがめた。
「体が、うまく動かせねえみたいだった。そんな苦しそうな感じでもなかったんだが。いきなり気を失っちまったんだ」
「なにか、毒に侵された可能性が高いですね。…応急処置ですが」
 言いながら、ヤードがふところから紫の魔石を取りだした。かるく目を閉じ、つぶやく。
「盟約に応えよ……小さき天使、ピコリット」
 力ある言葉にこたえ、あわい光をまとって翼ある童子が現れる。
「ヤード・グレナーゼの名において命ずる。汝が浄化の力をもって、悪しきいましめを…」
 詠唱とともに、薄紫のかがやきが天使の指にやどった瞬間。
 びくんと、おおきく娘の体がはねた。
「…ッ、あ」
 かすかに開いた口から、苦しげな喘ぎがもれる。はっとスカーレルが顔色を変えた。
「やめなさい、ヤード!」
 鋭い制止の声とともに、ヤードの手から魔石をはたき落とす。強引な干渉にぱちんとちいさく紫の火花が散って、目を見開いた天使の姿はそのままかき消えた。
「何を、スカーレル…」
 ヤードの抗議をさえぎって、スカーレルが続けた。
「だめよ! かえって、センセを苦しめることになる」
「な…!?」
「この症状、覚えがあるわ。召喚術じゃ解毒できない…いいえ、それどころか悪化させるだけ」
 取り出したハンカチで娘の足を、その膝下でぐっと縛る。
「カイル、この子をラトリクスへ連れていって。アタシも後から行くから」
「クノンのところか」
 スカーレルはうなずいた。
「センセの毒をどうにかできるアテがあるの。あそこなら大丈夫でしょうけど、できる限り、センセに魔力を帯びたものを近づけないように、それだけは言っておいてちょうだい」
「お…おう!」
 うなずいて、カイルは娘を担ぎあげた。走り出した後を、妖精がついて飛んでいく。
 その背を見送る間もなく、自分の部屋へとスカーレルは駆けこんだ。
 がたがたと化粧台の引き出しを鳴らし、目的のものを取り出す。にぎりこんで、立ち上がった。
「…スカーレル」
 ふりかえった先、扉口に立った幼なじみの顔は、わずかに青ざめ、こわばっていた。
「もしかして、あれは…」
「ええ、そうよ、ヤード。どういうツテで、帝国軍なんかが手に入れられたのかわからないけど」
 スカーレルは奥歯を噛みしめた。
「…アタシが無色から、持ちだしたのと同じもの」
 言い捨てて。青い小瓶を手のなかに、スカーレルは走り出した。



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