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 疲れた体を引きずり、タキは行きつけの酒場の扉を押した。
 とたん、静まりかえった街路に熱のこもったざわめきがあふれ出る。すでに夜半も近い時間だ。ちらりと見やれば席こそ半ば以上埋まっていたが、もう新たな客もないのだろう、テーブルの間で手持ち無沙汰なふうにしていたヒュームの娘が、すぐに注文を取りにきた。
「ずいぶん遅くまで出ずっぱりだったんですねえ。おつかれさまでした」
 ほこりまみれの軽鎧に泥も落とさぬ脚絆を見てか、にこやかに言った娘へ、タキはあいまいにほほえんだ。
「……適当に、なにか食べるものを」
「野兎のクリーム煮込みなら、すぐお出しできますよ。栄養たっぷり、疲れも吹っ飛ぶことまちがいなしです!」
 その後もなにか話したそうにしていた彼女に気づかないふりで、隅の卓に腰を下ろす。
 とたんに、体が鍛錬用の重石をくくりつけたかのように重くなった。全身の筋肉が、かるい熱を帯びて痛む。常なら意識にも引っかからない、紫煙によどんだ空気と酔漢の大声とが、いまはひどく耐えがたいもののように思われて、タキは知らず片手で顔をおおった。
「お待ちどうさま、お客さん!」
 威勢のよい声とともにどんとおかれた深皿に、のろのろと顔を上げる。溶けかかった野菜と、ほぐれた肉のクリーム煮があたたかな湯気を立ち上らせていた。添えられた木さじを手に取る。
 空腹には違いないのにそれを口にしたいと思えず、タキはしばらく、ぼんやりと乳白色のそれを見下ろしていた。
「よ、タキ」
 不意に、よく通るテノールが耳を打った。
「いま戻りか?」
 がたがたと隣のスツールが鳴る。目線だけを動かせば、席を移動して来たらしく、酒とつまみを両手にかかえた同種族の男が腰を下ろすところだった。よく知った相手に、タキはゆるく息を吐く。
「……今日はすみませんでした、フェッロ。ミッションは終わりましたか」
「ああ、ミュカに来てもらって、そっちは無事片付いたから気にしなくてかまわんよ」
「それはよかった」
 かるく言われた返答になんとかほほえみを返すと、旧来の友人は渋い顔をした。
「……ひどい面だな」
 すがめられた目が、その無造作に切った黒髪を透かしてじっと見つめてくる。
「他の奴らも心配してたぞ。約束を反故にしたことなんて数えるほどのおまえが、行けなくなったの伝言ひとつで姿を現さないときたもんだ」
 そこで男は大仰にため息をついてみせた。
「ミュカにいたっては、ええ〜アンタならともかく、タキに限ってドタキャンなんてウソでしょ〜だとさ。…やっぱあれかね、日頃の行いってやつ?」
 身ぶり手振りで共通の知人のものまねまでしてみせたフェッロに、タキは小さく苦笑した。
「なに言ってるんですか」
 はは、とフェッロは笑って言葉を継いだ。
「まあ、そんな素行の悪い俺だがね、これでも友人は大切にしてるほうなんだ。なんだか知らないが、まだ片付いてないんだろ? とりあえず、話をきかせてくれよ」
 タキは、手に持ったままの木さじに目をやった。深皿に置く。
「心配をかけてすみません。他のメンバーにも、俺からまた謝っておきます」
「ああ、それがいいだろうな。で?」
 わずかに低くなった声で催促される。タキは、煮込みの冷めて油の膜をはった表面に目を落とした。
「……仲間が、うちのリンクシェルのメンバーが、要塞の地下で行方知れずになったんです。エスケプからもれた俺を逃がすために、おとりになって」
 重傷を負ったリピピを他の二人にまかせて要塞の入り口で待ったが、月の昇るころになってもタチナナは戻らず、リンクシェルに連絡が入ることもなかった。
「人をかき集めて探しに戻りましたが、結局、持ち帰ることができたのは、彼女の剣だけで。…他にはどんな痕跡も、見つけることができなかった」
「……なるほどな」
 その力ある声と旋律でもって敵をくじき、味方を鼓舞することをなりわいとする友人は、静かに言った。
「なあ、タキ。そいつは、おまえを助けるために死ぬつもりだったと思ってるか?」
 タキは首を振った。
「見込みのない賭けをするような人じゃない。だから、彼女のことばを信用してその場をまかせたんです。でも……」
「……だろうな。おまえがわが身惜しさに仲間を捨てて逃げるような奴じゃないのは、俺もよく知ってる」
 半ば独り言のように落ちたその声にひそむ自嘲に、タキは顔を上げた。ためらいながら、友人の名を呼ぶ。
「フェッロ」
「そのおまえが、死ぬことを覚悟した上での虚言じゃないと思ったのならそれは、信じていいんじゃないのかね。死体は見つからなかったんだろう?」
「…ええ」
 その声音から陰りをきれいに消し去って笑ってみせた友人に、かけようとしたことばを飲み込み、タキはうなずいた。
「じゃ、とりあえずそれ食って、帰って寝ちまえ」
 どんと背中をたたかれる。
「いま、おまえ、ろくに頭も動いてないだろ。何するにせよまず明日だ」
「そう……ですね」
 明るく言い切られ、タキは、無理なく笑みを返せた自分におどろいていた。
「……ありがとう、フェッロ」
 友人は、にやりと切れ長の目をゆがめてみせた。
「いいや、おまえのしょげてるところなんてめずらしいものおがませてもらったしな」
「高くつきますよ」
「おいおい、俺がいつも貧乏に泣いてるの知ってるだろ?」
「ええ知ってますとも、ついこのあいだ、印章戦で一山当てたこともね」
「なに!?」
 ぎょっとしたように、その目が大きく見開かれる。
「どこからもれたんだ。いっしょに行った奴らには固く口止めしといたってのに」
 おおげさに嘆いた友人に笑って、タキは目の前の皿に目を戻した。
「あの、…お客さん」
 そのタイミングをはかっていたかのように、おずおずと、最初に注文を取りにきた娘が声をかけてきた。
「まだ全然手を付けてませんでしたよね? よかったらそれ、鍋で温めなおしますよ」
 驚いて、タキはまばたきをした。娘はおちつかなさげに手を組み合わせている。
「え、…いいんですか。ありがとう」
 謝意をこめてほほえむと、娘がわずかに顔を赤らめた。
「いえ! どうせなら、おいしく食べていただきたいですから」
 皿を手にして、足取り軽く酒場のざわめきの中に戻っていった小柄な背中に、フェッロが小さく口笛を吹いた。
「気が利く上になかなかかわいい子だな。くぅ、色男がうらやましいね」
「フェッロ、あなたね…」
「それでもって本人がっついてないところが、悔しいがまたポイント高いんだろうな」
 軽口をたたきながら立ち上がったフェッロをタキは見上げた。
「じゃ、俺は帰るが、ちゃんと休めよ。また明日な」
「ええ。おやすみなさい、フェッロ」
 また明日。明日という日に、望みを抱いてもいいのかもしれない。そう思わせてくれた友人に、心の中でもう一度礼を言って、タキは小さくほほえんだ。



 窓にかかった日除け布のすきまから見える空は、わずかに白み始めていた。
 ローファルは、音を立てぬように足先に力を込め、椅子から立ちあがった。壁にかかったランプの灯を消して、寝台に横たわるリピピをのぞきこむ。
 夜明け前の青みがかった明るさをほおに受けて眠る、血の気の失せた顔色は、死者のそれにもよく似ている。
 手を伸ばし、リピピのまっすぐな前髪を払ってひたいに指を置く。触れたそこはひやりと冷たかったが、手のひらに触れたかすかな吐息に心底ほっとして、ローファルはまた椅子に背を沈めた。
 理性では、この小さな娘のたましいが、女神のもとへさまよいでていくことはないとわかっている。それでもなお、自分の宿舎へ戻って眠る気にはなれず、番人のように過ごした一夜だった。
 ほそく曙光が差しいってくる。なにかがちかりとまたたいた気がして見やった先で、修道士の娘がそなえつけのテーブルに突っ伏すようにして眠っていた。その白銀の髪が、弱々しいひかりを宿してかがやいている。
 彼女も力を尽くしてくれたが、場に存在する光属性の魔力を生命力へと転化する蘇生の術とは異なり、回復魔法は本人の体力が残っていることを前提として、その治癒の速度を上げるためのものだ。術の対象となる者が衰弱していてはたいした効果が望めないことは、施術をつづけていた彼女自身にもわかっていただろう。それでも何かせずにはいられない心情は、おそらくローファルのそれと同じものだ。
 深い息を吐き出すのと重なるように、朝の静寂にふさわしい、ささやかなノックがひびいた。こちらに答えを返す気がないのをわかっているように、そのまま沈黙が落ちる。
 ローファルはモグハウスの扉をひらいた。
「ああ、タキか」
 扉の外、早朝のジュノはうっすらと霧がたちこめ肌寒いほどだった。外に立っていた青年の、やや伸ばした明るい茶の髪にも、こまかな水滴が宿っている。その湿り気を帯びた冷気が流れ込む前に自分が外へ出て、扉を閉める。
「リピピの様子はどうですか」
 問いかけてきた青年は、昨晩要塞から戻ったときの憔悴した彼とは見まがうほどに落ち着いた表情をしていた。
「まだ目は覚ましてないが、数日安静にしていれば大丈夫だろう、多分な」
 ほっと、タキのやわらかな目もとがなごんだ。
「それはよかった。…それで、今日なんですが。どこか見落としがなかったか、もう一度要塞へ行って…」
「や、その必要はないぞ」
 霧のなかから、なめらかな声が届いた。ついで、見知らぬヒュームの姿が現れる。
「おまえのところのモグに聞いたら、こっちだって言うもんでな。昨日はちゃんと休んだようで、感心感心」
 手を上げてみせた男に、タキがおどろいた顔をした。
「フェッロ」
「……あんたの知り合いか?」
「ええ、今日の手伝いを頼もうと思ってたんですけど……こんな早くから、どうしたんですか」
「いやあ、俺って夜型人間だからさ。あれからちょっと一仕事をね」
 かるい口調で言った男を、ローファルは見下ろした。やや痩せ形の体に、黒っぽい髪とひとみ。丈夫そうな布で仕立てたローブを見るに後衛職なのだろうが、魔道士が好むような知力もしくは精神力を上げる類のアクセサリーは見当たらない。
 その視線に気づいたのか、男が片方の眉を器用にあげた。
「おや、そこの兄さん、朝っぱらからずいぶんお疲れって顔だな」
 そう言って背に負った荷袋から取りだしたものを見て、やっとその職業に合点が行った。
 男の手にした小さな竪琴から、浮きたつような軽快な調べが二、三小節流れ出した。ごく短いものだったが、ピィンと最後の音の名残が消えるころには、明らかに疲労がやわらいでいる。
 多少の驚きをこめて、ローファルは礼を口にした。
「楽になった。ありがとう」
「いやいや、ほんとうならこの俺の美声もこころゆくまで聞いてもらいたいところなんだが、それはまた次の楽しみとして取っといてくれ」
 破顔した相手にどう答えればいいやら困惑していると、タキがためいきをついた。
「すみません、こういう人なんです。それより、必要がないって…どういうことですか?」
「ああ、そうだった。例の行方不明になった、おまえの仲間な。それらしい奴を見つけたぞ」
 あっさりと告げられたことばに、ローファルは絶句する。
 見やれば、タキも同様の様子だった。
「……なんですって?」



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